僕らは山ちゃんになれてもクロちゃんにはなれない――テラスハウス再考

『テラスハウス』とは2012年から2014年までフジテレビ系列の地上波で放送され、現在はNetflixにて最新作が配信されているリアリティ・ショーである。

男女がシェアハウスで暮らす様子を映し、そのVTRをスタジオにいるレギュラータレントがコメントしながら見るというのが基本的な番組スタイルだ。スタジオメンバーはYOUやトリンドル玲奈といった女性タレントに加え、チュートリアル徳井、南海キャンディーズ 山里ら芸人も出演している。中でも山里が発するコメントは、ときに番組をリアルタイムで見たテラハメンバーにショックを与えるほど毒舌(もはや悪口)で、後に述べるがこの山里の存在がテラハのキーポイントでもある。

ところで、なぜいまさらテラハなのか。それは単純に、私が最近はじめてテラハを見たからだ。世の中には一定数、「テラハっていけ好かないチャラい男と女がくっついたり離れたりするやつでしょ、そういうの嫌いだわー」と思っている人々が存在していると思われる。 かくいう私もその一人だった。しかし、友人宅で半ば強引に見せられた軽井沢編は、そんな先入観を消し去るほどぶっ飛んだ内容だったのだ。

だから正直に話せば、私はテラハ初心者であるし、なんなら軽井沢編しか見ていない。そのことを前提に、以下読み進めてもらえればと思う。
私がここで話したいのは、テラハのメタ性である。さらに言うなら、オルタナティブなメタ性である。それはどういうことか。

繰り返しになるが、テラハはシェアハウスでメンバーが生活する様子をスタジオメンバ ーが見てコメントする、という構造になっている。この二重構造において、スタジオメンバーはテラハメンバーをメタ的に観察する立場にいる。例えば『あいのり』などを思い出してほしいが、従来のリアリティ・ショーにおいてはこの二重構造で番組が完結していた。しかしテラハにおいてはもう一つの次元が存在する。それは視聴者の次元である。

視聴者はシェアハウスの様子を見て、それについてあることないことコメントするスタジオの様子を見る。その上で、視聴者もまた感想を発する。その感想は1990年代のようにお茶の間で閉じることはない。SNSを通じて世に発信され、テラハメンバーにダイレクトに伝わりすらするのである。

例えば軽井沢編に登場した優衣はブライダル業界志望の就活生だった。しかし同じ男性に好意を寄せる女子メンバーへの意地悪い振る舞いが視聴者の反感を買い、「(優衣がいるような式場で)結婚式を挙げたくない」といった誹謗中傷をSNS上で受けてしまう。その結果、優衣はブライダル業界への就職を諦めたことをテラハメンバーに伝える。

この視聴者の感想の方向性は、スタジオメンバーのコメントによって左右される場合が多い。特に山里はネタになりそうなメンバーを見つけると率先してイジっていく。中には地上波の番組ならカットされてもおかしくないような発言があり、他のスタジオメンバーが沈黙してしまう時も少なくない。

この山里の振る舞いは、番組内におけるツッコミとしての機能を果たしているわけだが、それは番組を見ながらSNSでツッコミを入れる視聴者の役割と同等であると言える。そして特定のメンバーを過度に攻撃する態度は、SNS上でテラハメンバーのアカウントを炎上させる視聴者の振る舞いと同等である。この意味において、視聴者はオルタナティブなメタ 性を獲得する。もっとわかりやすく言えば、我々視聴者はオルタナティブな山里亮太なのである。

テラハのテレビ番組としての新規性はSNSと連動した循環構造にある。出演者のコメントが視聴者のリアクションを喚起し、またそれがSNSを通して番組制作側や出演者に伝わり番組に反映されていく。2010 年代以降のSNS時代における、テレビ番組の新たなあり方を示唆していると言えるだろう。

この特徴的な構造をそっくりそのまま取り入れさらに先鋭化させたのが、TBS系列『水曜日のダウンタウン』内で2018年に放送された「モンスターハウス」である。男女がシェ アハウスで生活する様子を撮影するという手法や編集の仕方に至るまで、ほとんどそのままテラハと同じである。出演する男女もいかにもテラハに出てきそうな属性や見た目をしている。唯一違うのは、安田大サーカスのクロちゃんを中心にしているということだ。

番組内ではたびたびクロちゃんをドッキリのターゲットにしてきた。番組側はドッキリ企画を意図して隠し撮りをするのだが、そこではクロちゃんのあまりにクズすぎてサイコパスにすら見える行動が映り込んでしまい、番組側の意図とは異なる面白さが際立ってしまう。このクロちゃんの「モンスター」な側面を撮ることに集中した企画がモンスターハウスである。クロちゃんは本家よろしく女子メンバーと仲良くなろうとするのだが、二股をかけたり、男子メンバーを半ば脅迫に近い形で牽制したりと、相変わらずクズっぷりを見せる。

テラハは生活の全てを収録という形で撮影するが、モンスターハウスでは最終回が生放送され、クロちゃんの酷い行動を許せるか許せないか視聴者投票が行われた。その結果許せないが圧倒的過半数を超え、クロちゃんには罰ゲームが課された。それは、としまえんでクロちゃんが番組終了後約24時間檻に閉じ込められ、視聴者は直接その姿を見に行くことができるというものだった。

番組は罰ゲームの内容が明かされたところで終わる。その後は番組の演出を担当する藤井健太郎が自身のInstagramにて、檻に入る準備をするクロちゃんの様子をライブ中継し続けた。そして入園の時間になり、番組を見た人々が檻に押し寄せるところで中継は終了する。 結果的に、本企画はあまりにも人が殺到しすぎたため警察が出動する事態となり、開始から数時間で中止となってしまった。

番組内では檻に入るクロちゃんの写真、動画撮影および SNS へのアップが可能であることが強調されていた。そのため、罰ゲーム開始後はTwitterやInstagram上で「クロちゃん」 と検索することで、檻に閉じ込められたクロちゃんのその後を確認することができた。
こうしたテレビの枠組みを超えてSNSと連動させる手法はテラスハウスと同じであるが、普段ならスマートフォンの向こう側で好き放題言っている視聴者を現実の場所に呼び寄せて、彼らが普段どのような顔をしてコメントしているか浮き彫りにさせた点はさすがの企画力である。

テラハはSNSとの共犯関係の中で番組を進展させる構造をもち、モンスターハウスはそれを突き詰めた上で、現実空間にまで視聴者を動員させた。SNSとの共犯関係という構造はそのまま現実で行われていることの鏡写しと言える。要するに、我々もまたSNSと現実空間を行き来しながら日常を過ごしているのだ。その中で、炎上することもあれば人生が進展するような出来事に巡り合うこともある。

テラハ内において、山里はテラハメンバーに対し「SNSの声を気にしすぎなんだよ」としきりに言う。SNSの声を気にして進路を変えた優衣に対しても、そこまで気にする必要はないと言っていた。
その指摘は確かに正しい。SNSのコメントをいちいち気にしていては身がもたない。クロちゃんのように、どれだけTwitterで悪口を書き込まれても、ノイズとしてスルーすれば良いだけだ。

しかしどんなに真に受けなくていいと言われても、気になるものは気になるし、傷つくものは傷つく。クロちゃんのような対応は常人には無理だ。
所詮ネットの世界だからと言うには、あまりにも私たちの日常とネットは地続きになっている。両者の距離は、手のひらとスマホが分かちがたくなるほど近くなっていくだろう。

しかし同時に、私はこの現象に希望を見出してみたい。その希望とは恥の可視化である。例えばテラハは人のずる賢さや意地悪さなど恥ずかしい部分を暴力的にさらけ出す。まるでSNSで晒されるユーザーのように。でも考えてみれば、むしろその中に「ああ、みんなそれなりに恥ずかしいことしてるんだ」という安心感を見出すことさえできるのではないだろうか。人間誰しも程度の差はあれ恥ずかしい部分はあり、それはあってもいいものなのだということを、恥が可視化されることで再確認することができる。ついには、何が恥ずかしいこととされるのかという恥の基準さえ、変わっていくのではないだろうか。

このように、テラハをはじめとするリアリティ・ショーは、SNSと現実の折り合いのつけ方を考える上でとても示唆的である。だから、みんなテラハ見よう。

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