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或る馬頭の家 (Albert's House) - Parvāne [Chet Baker cover]



[lyrics]

“Albert’s House”
composed by Steve Allen
originally performed (but not sung) by Chet Baker
released by Beverly Hills Records, 1969
additional Japanese lyrics were written by Yuki Tabata (also known as Shì Jīn), 2023

rearranged, performed, recorded and mixed by Yuki Tabata (also known as Shì Jīn)
mastered by https://bakuage.com/



 ことの発端は西暦2022年10月末、私がジョージ・マイケル『オールダー』のリミテッド・コレクターズ・エディション(日本盤)を購入した頃に遡る。それまでの私は『オールダー』期のジョージ楽曲をベスト盤で部分的にしか聴いていなかったが、初めて全体にふれてこう思ったものだ、「このアルバムはおかしい」と。冒頭の『Jesus to a Child』(「ムスリムたるお前はこの曲名に関して何も思う事はないのか」と問われたなら、もちろん「ある」と答える。歳上で同性の恋人の在りし日の姿を「幼子に対するイーサーﷺ」という直喩で哀惜するこの曲は、キリスト教徒の迷妄とは全く異なるかたちでイーサーﷺの偉大さを描出した作品だと言いうる。なぜなら詞中でイーサーﷺが慈しむのは ”a child“ 、とくに女児とも男児とも特定しがたい、いや特定する必要のない対象である。この正確な叙述により、イーサーﷺの霊性が弱き者──被抑圧者、貧者、意に沿わぬ職業に身を窶す女性、これらすべての弱き者がかつてそうであったような幼子──を救済するための慈悲心に根差していた事実を揺るぎない詩的正義として据えたうえで、「キリスト教徒」を自称するにも拘らず使徒ﷺとして迷える者らを導き過つ者らを弾劾したイーサーﷺの政治的霊性から目を逸らし続け・こともあろうに「神の子」などという侮辱的な迷妄を貼り付け使徒ﷺの偉業を眩ませてまで自らの卑小な安逸を偸みつづける態度を今もって崩さない無恥の輩どもを直接撃つまでもなく、聖歌などよりも遙かに透徹した詩法で心優しき使徒ﷺの霊性を浮かび上がらせることにジョージ・マイケルは成功したのだから。もちろん最も重要なのは、詞中の彼がイーサーﷺから眼差しを向けられる側=受動的な幼子に徹したことである。「受動性」が歌手業または創作全般において欠かせない態度であることは本文の末部にて明らかにされる)はゲッツ、ジルベルト、ジョビンからの影響が明らかなバラードで、歌詞の内容はブラジルで出会いエイズで死別する運命となった歳上の恋人:アンセルモ・フェレッパ(ところで、この姓名を逆にすれば同時代で最もマッチョなシンガー:フィリップ・アンセルモとほぼ同じ発音になる事実が私を惹きつける。ちなみにジョージ・マイケルとフィリップ・アンセルモの生年月日は5年と5日違いで、同じ蟹座である)を哀悼するもの。言うまでもなく曲中には霊妙と呼ばれるべき(とくに曲を通して途切れないストリングスによるコード感の持続と、ささやかながら曲中のビート情報を確実に提供するドラムスとベースラインによる)雰囲気が立ち込めているが、直後に続く『Fastlove』は全く異なる曲調のメロウなソウルであり、中間部における唐突なサンプリングの挿入(先述の『Jesus to a Child』で保たれていたコードの持続感とは真逆のヒップホップ的な切断=繋留感)によってファンク=モーダル性を半分保ちつつ非コーダルな推進による「展開」をも兼ね備えた、(かねてより私も愛聴していたとおり)比類ない名曲だと言いうる。しかし繰り返すまでもなく、この2曲目は冒頭の『Jesus to a Child』とはあまりに趣を異にしている。曲調のみではない、歌詞のテーマですらそうなのだ。「ブラジルで出会いエイズで早生する運命となった恋人への哀悼」を唄った直後、いきなり「不特定多数者との性愛、その関係の即物性を踏まえてもなお求めずにはいられない男の出立」が来る。この落差はいったい何だ。『オールダー』日本盤に着いているブックレット対訳を読んでも、この『Jesus to a Child』→『Fastlove』で行われている呆然必至の変わり身の早さには直接の言及が無い。おそらく90年代中盤のジョージが通過した苦艱(元レーベルたるSONYとの法廷闘争と、先述した恋人との死別)を記述するには、前楽曲の着想を彼自身の新生の契機として・後楽曲を白人ソウルシンガーとしてのブレイクスルーとして位置付ける必要があったため、この2曲を並置した際に浮かび上がらざるをえない「歌い手たるジョージ・マイケルの変わり身の早さ」などについては触れる余地すら無かったのではないか。しかし、アルバムを頭から聴きさえすればわかることなのだ。この流れはおかしい。エイズで亡くなった恋人を悼んだ次の瞬間に夜の街へ繰り出してしまうこの男はおかしい。けども、この上なく人間的だ。「二面性」などと最初から何も意味しない定型句を貼り付けるまでもない(想い人と肉体的な愛を交わす時の自分と、論文を書き継いでいる時の自分と、橋の下で釣り糸を垂らしている時の自分がすべて同じ人間であるわけがない。常人ならば数えられないほどの「多面性」を備えていて当然なのであって、もし「二面」として数えられる程度の人間性しか持ち合わせない者がいたとしたら、そちらのほうが発狂していることになろう)、ただ有体に人間的な者の姿がここに浮かび上がっている。ひとたび相手を熱烈に愛した者は、死によって恋人との間を引き裂かれたならば深く憂悶に沈むに違いない。しかしまた、いつまでもひとりに思い煩って沈鬱をかこい続けるわけではないことも確かなのだ。言うまでもなく西暦2023年の現在とは、気の置けない友人からいきなり裏切られてそれに対するリベンジを果たすとか、抜けるように晴れた空の下で残虐な儀式が行われるとか、そういう陽から陰・または陰から陽へ(同じことだ)の反転によって何か「刺激的」なものをつくったぞとでも思いたげな幼稚なクリエイターたちの作家面が罷り通り、かつそのような安易な刺激でしか「生の実感」を得られなくなった雑多な消費者たちのジャンキーごっこがそこらじゅうで可視化されている時代である。しかし翻って90年代中盤のジョージ・マイケルは、そのような陽から陰・または陰から陽への反転すら必要としない。彼にとっては亡き恋人への哀惜も・ハッテン場への勇躍も同じひとりの人間を突き動かしている力の別様な発露にすぎず、そこに矛盾も属性的な背反もありようがないからだ。人間とは愛において、受苦において、そして何より生き続けるための営みにおいて、そもそもこのようなものであった。『Jesus to a Child』→『Fastlove』の冒頭2曲で明らかにされていたのは、まさに90年代中盤(現在と同じ程度には「悲惨」さを売りにする逆張りクリエイターたちが脚光を浴びていた時代。言うまでもなく代表例は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明)における人間的な、あまりにも人間的な新生の有様であった。

『オールダー』が私に与えた衝撃は、前段落の内容のみにとどまらない。今一度『Fastlove』のビデオを視直してみよう。そこに映っている姿は、言うなれば pocket monster の master とでも呼ばれるべき存在である(ちなみに、『めざせポケモンマスター』は『オールダー』とたった1年違いの、同時代性を共有した曲である。詞には「あのコのスカートの中」という一節が含まれているが、この「あのコ」が女の子だと限定されるべき根拠はどこにもない。何故なら pocket monster とは文字通り男性器そのものを意味し、ポケモンをゲットしたい主人公の情熱は『Fastlove』におけるハッテン場での男漁りにもそのまま置換可能だからだ)。凄まじい眼力を秘めて玉座に在り、夥しい数のハイレベルなセクシーポケモンを従えた1996年当時のジョージ・マイケルは、20世紀のラヴを全て知り尽くした者であるかのような風格を湛えている。
 この段落で書くことが一番大事なのだが、西暦1996年のジョージ・マイケルと2020年代の我々とを比較して瞭然となるのは、ヴァーチャルとセクシーとの相関性(の違い)である。『Fastlove』では次々とヴァーチャルな pocket monster たちが召喚されてめくるめくラヴの様相が展開されているが、ここにおいてもジョージ的世界観は肉感をまったく失っていない。ヴァーチャルとセクシーふたつの数値が、相互に比例するように高められているのだ。
 対して我々は今、(今年に入って急速に下火になったが)メタヴァースや Vtuberなど、ヴァーチャルな世界では全てが思い通りになるのだとでも言いたげな世相を享受しているが、しかし種々の話題から聞こえてくるのは、結局ヴァーチャルに耽りたかった人々の欲望がリアル由来の雑音(炎上とか妙な移入を慢性化させたファンの奇行とか)によって不全を起こすという、とくに哀れむ気も起きない呻きたちばかりである。それらの症例が明らかにしたのは、ヴァーチャルとセクシーの両数値は、さながら一定量のボトルの中で水と蒸留酒の比率が変わるカクテルのようなもので、我々がヴァーチャルとセクシーを反比例する形でしか持ち得ない(という狭窄を自明視してしまっている)こと、その苦味の前景化であったろう。そんな我々の現状を尻目に、西暦1996年のジョージ・マイケルの姿は、未だ誰にも打倒できない pocket monster の master の如きヴァーチャル×セクシーの両刀遣いを優雅に見せつけて憚らない。

 以上を踏まえて私の中に去来していたのは、純然たる敗北感であった。「ジョージ・マイケルに勝てない」という。雑多なドラッグを歓迎して肝心の肉体を行使しなくなりつつある我々の世代では、あの恐るべき pocket monster の master に勝てない。当時の私は全パート生演奏による『十九角形』の音源を仕上げにかかっていたが、『オールダー』収録曲と私の最新曲を並べたところで、すでに勝敗は明らかであった。昨年に発表した『十九角形』音源の出来について言い訳する気は一切ないが、私個人に帰されるべき責として確実に言えるのは、ボーカリストとしての自覚があまりに欠けていた、ということだ。私は確かにラッパーおよびスクリーマーとして既に熟練の域に達してはいたが、しかしメロディを己の喉ひとつで担うボーカリストとしての備えは粗漏であった。ならば、立ち向かわねばならない。私の前に立ちはだかっているのは90年代中盤のジョージ・マイケル、「ギリシア産のゲイ」という、ヘレニズム以来の人類史をリードし続けてきたブランドの代表にして最後の者である。「ギリシア産のゲイ」の株価は、単に文化・政治的な落日に加えてハイデガーや三島由紀夫のような雑多なフォロワーどもの悪行も加わって大暴落したが、少なくとも20世紀いっぱいまでは持ち堪えた。私が身を置いているのは、「ギリシア産のゲイ」最後の末裔たる男、それも既に地上には肉体的に存在しないジョージ・マイケルに引導を渡し、彼から得たものを我が身において別様の美として花開かせるための闘いの場である。そのために必要とされた具体策は、ピッチ修正どころかパンチインによる編集も一切行わない、各曲一発録りの生歌による作品への挑戦であった。エレクトリックピアノとチェロの伴奏のみを音情報とする企画『Singin' Still』は昨年夏から既に選曲と編曲が済まされていたが、『十九角形』から『肌』への季節を経た私が(2ndアルバムのデモ録りと並行しつつ)進んだ先が『Singin' Still』であったのも至当の運命だったと言うべきだろう。『肌』は朝目覚めたときに全て作曲が済んでいたので(Parvāne の作曲は「もう身体の中に全部入っているので音をいじる必要すらない」パターンと「シーケンサーの画面を前にして熟考しながら作り上げる」パターンの2種類に大別される。前者の典型例は『蛾の死』や『毛毛蟲放克』そして『肌』、後者の典型例は『浮く家』や『ピーターパン狩り』など)、あとは打ち込んでボーカルを録って適切な者にトラックマニピュレートを依頼するだけでよかった(ちなみに『肌』のトラックはブーツィ・コリンズ、90年代のプリンス、ジャミロクワイなどを音色的元ネタとして作られたが、「ジョージ・マイケルの『Monkey』にハイエナジーやニュージャックスウィングなど同時代のダンステイストを加えたもの」というコンセプトも意識されていた。『オールダー』期のジョージに赤手で挑んでも勝ち目がないのは明白であるため、まずは80年代後半に彼がやっていたことを外堀から埋める必要があったのだ)。一般的に、ボーカリストが活動するには好ましくないはずの真冬(それも──既に記憶すら薄れているかもしれないが──あのおぞましい世界的な寒波の只中)において何故かいやに喉の調子が良い日があり、『肌』の主要なメロディとヴァース部はすべてその1日で録り終えられた(仕事終わり直後から睡眠を挟まずに始めたため、作業時間は深夜にまで及んだ。西暦2022年12月末の寒風吹き荒ぶ真夜中、私が暮らしている物件の階にあのメロディアスなシャウトが漏れ響いていた情景を想像していただきたい)。真冬に不相応な喉の好調は、全能なるアッラーによるお恵み以外の何物でもなかったと今では思える。至上なるアッラーに称えあれ。とはいっても『肌』は依然としてボーカルトラックにピッチ修正が施されており、完全な生歌とは言いがたい。ただ Parvāne の1stアルバムで使っていた修正プラグイン(いわゆるケロケロ声)などはもはや私にとって無用であり、比較的自然なピッチ補正として WAVES Tune を使うのみだった。西暦2021年6月に始まった Parvāne は、西暦2022年末までの18ヶ月を経て、最も顕著な変化をボーカリストたる私のスタイルに及ぼしたと言うべきだろう。




〔以降の内容を含む本稿の全文および『Singin' Still vol.1』の全編は、 Integral Verse Patreon channel有料サポーター特典として限定公開される。〕

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