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【エッセイ】「私」が薄れていく。

こんばんは。


今、noteとXを2ヶ月も続けられています。

これは、私にとって大きな進歩なのです。


私は前にTwitter(現X)で「○○垢」という特定のアイドルやアーティストを推すためのアカウントを持っていた。


でも、続かなかった。
結局、疲れてやめてしまった。


このアカウントだと、○○好きとの関係性を築きやすい。
だから簡単にフォロワーが増える。

フォロー・フォロワーは100人以上いた。

お互い「いいね」をしたり、返信しあったり。
Twitterを開くと、そこはいつも○○の情報で溢れていた。

気楽に○○について発信できる。
それにフォロワーが反応してくれる。

なにも不自由ない。


でも、それがだんだん嫌になってきた。


○○について発信するたびに、自分の存在がわからなくなる。

このコミュニティーは○○ありきのもの。
「○○が~」「○○の~」という発信は共感される。
ただし、その主語が「○○」から「私」に置き換わったとき、その発信は価値が薄れてしまう。

それはそう。
フォロワーにとって、私が○○に関して発信するから仲良くしてくれる。
私もそうしていた。
だからこそ、小さくても充実したコミュニティーになる。

中には、○○さんがツイートするたびに、
「○○さんこんばんは!~って~で、それで~✨」
みたいな返信をする方もいた。

これは悪いことではない。
その人なりの愛情表現。
しかし、○○さんをとにかく肯定しようとする投稿が毎日流れてくる。
これにだんだんと疲れてきた。


私は言いたいことがいえない。
みんなは○○愛を惜しまず垂れ流していく。


「自分はなんでにここにいるんだろう?」


そうして、私が○○ありきでしか表現ができないことに息苦しさを感じた。

自分の好きに囚われるような感覚、それが嫌になった。

「サブ垢」を作り、自分の気持ちを好きなように発信すればよかったのかもしれない。

ただ、「○○好き」も「もやもやした気持ち」も、私の成分。
それを2つに分けてしまうと、自分が2人いるような違和感を感じる。


「私を表現できないなら、もういいかな。」
「ここにいても、なにもできない。」


こうして、私はアカウントを消してしまった。

フォローしてくれた方には申し訳ないと思っている。
1ヶ月ほどで、何も言わずに消えていったのだから。
はたから見れば自分勝手だ。


そして、今はnoteとXでうまくバランスをとっている。

noteは私の「文章」を、Xは「つぶやき」を発信するツールとして。
気楽に発信。

そのくらいがちょうどいい。


自分を「かぐや」という1つのキャラクターに投影した方が、噓偽りなく「私」を表現できる。


こうして今日もnoteで文章を、Xでちょっとしたことをアウトプットしたり、いろいろな投稿を見たりしています。

よかったらXにもあそびにきてね。





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