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通勤快速教、降車のたびに社会性を問われる気がする

踏切に人が立ち入って、さらに要救護の病人が出たので、電車が30分遅れた。通勤快速はなお混雑していた。ターミナル駅で下車するのだが、そのときいつも考える、自分は他者集団を信じているんだろうか、今ここに居合わせた人たちを信じないなら、社会とか組織とかも信じられないってことになるのかな。つまり、私は下車駅でナチュラルに降りられるのかどうかということだ。

乗客の乗車目的は多様だが、アクションは同一、乗って降りる、それに奇抜なパターンはない。みんな、私も、いつか降りようと構えている。しかし混雑していると、その思惑の多様さに不安になる。私の下車駅が終点でないかぎり、関係ない乗客があるからだ。ドア前に立っている乗客の中には、降りない人がいる。その人がどう動くかで、あまりにも混雑した電車から降りられないことも起こりうる。多ければ多いほど、リスクは上がっていく。

この時に、見知らぬ乗客のみなさんをどのくらい信用できるかで、社会適応度が試されているような気がする。降車駅がまだ遠くても、確実に下車できるドア前に人を押しのけて出張っていけば、間違いなく降りられるけれど、他人の体をぎゅうぎゅう押して、私は絶対に降りるのだという意思表明をするのは、ものすごく不作法な気がしてしまう。

乗車時に予めドア前を陣取るのも確実かもしれないが、新しい駅で乗ってくる人にとっては、ドア前にがんばっている人は障害物にしか見えない。だから新しい乗客にも古い乗客にも意識されない忖度として「なかほど」に移動する。本心では移動したくない、ドア前の手すりにしがみついていたい。もし乗客のほとんどが私の降車駅で降りない場合、ドアに突進しなくてはならなくなるかもしれないからだ。自由などない、集団の流れにまかせて、万が一降りられなくてもしょうがないのかもしれない。もしそれでも自分の駅で降りようとするかは、そこは判断次第だ。

たいていは「車両のなかほど」に妥協して入り、ドアを意識しながら、私が下りるターミナル駅では大多数の人が利用するから、流れに乗っていけば、努力せずにナチュラルに下車できる、と人々を信じようとする。ここで無駄な動きをしない、きっと大丈夫だと信じようとする。私にとってここで車両にいる同胞全員が信仰の対象になる。いわば通勤快速教だ。

ところが先日、ターミナル駅で降りようとする私の前に、流れを拒む頑固なウンコのような人が立ちはだかった。降りようとするニュアンスに気づいて、多くの人は体を寄せて道をつけてくれたが、その彼だけがドア前から動かないのでドアに行かれない。彼が「なかほど」に妥協するか、いったんホームに降りてくれれば、その空間からタイルゲーム的に道ができる。彼はどうしたのだろう、一体何を恐れているだろうか、下車しない駅に降りてしまうこと、人込みに押し込まれてしまうこと。時間がない、私は野生をむき出しにして信仰を捨て「降ります!」ととんでもない大声を出した。