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九十八話 豊台事件

 「聯隊初の試練だ。同日午後六時頃、第三大隊の第七中隊が、夜間演習に行く路上において、二十九軍三十七師の兵が我が将校の乗馬を殴打し、看護兵にも暴行を加えて来たんだ」
 「何と、八年前そのようなことが・・・」
 「事件勃発とともに、牟田口連隊長が善処を求め、三十七師の許長林福師長と会談したが、こともあろうか三十七師内に強硬派がおり、上手くいかなかった。しかし、こちらがあくまで穏健な解決を望んだため、許福師長は馮治安師長と目下天津にいた宋哲元冀察政務委員会委員長に指示を仰いだ。これにより、翌日早暁、許福師長が『取敢えず北寧鉄道の南側に撤退し、今日、明日中には遠距離地点に移駐する』と伝えてきたため、牟田口連隊長は田代司令官に直接決裁を依頼し、承認を得た。午前九時に、解決した旨を発表してからは、我が方は直ちに原隊復帰、北平から援軍もトラックに分乗して帰還した。ところが、三十七師の方は、二十一日朝になっても留まり続け、協定の取り決め自体した覚えたがないときた。結局は、日支両軍首脳の一致した不拡大方針が貫かれ、協定は曲がりなりにも実行されたが、大きなしこりが残ったんだ」
 「支那の部隊はとんでもないですね!しかし、宋哲元と馮治安は理解があるけど、許長林が悪いということですか」
 「その辺は俺にもわからないよ。ただ、豊台区は要地で、北寧鉄道と京漢線を結ぶ長豊支線が走っている。大きな鉄路工廠もあり、開戦で豊台がダメージを受ければ、華北の交通は忽ち麻痺してしまう。だから、軍も兵数約九百だが精強な東北健児が多数集う第三大隊の他、全歩兵砲隊を配置し、警戒に努めていた。とはいえ、華北に八万の兵を擁す二十九軍とやりあえば、豊台がすぐに孤立無援になるだろう。それは俺にも想像つくよ」

 『多勢に無勢』という言葉が浮かぶ。
 浅井は兵長の話を聞き、初めて自分の置かれた状況を理解した気がした。
 敵地アウェイ――そう、何を隠そう此処は、完全敵地パーフェクトアウェイなのだ。
 そう考えると聯隊自体が、何か不思議な運命共同体の生き物のように思えた。

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