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声に出して読む「脈絡」と「リズム」:第3回「10日間で作文を上手にする方法」(Part8-3)いぬのせなか座連続講座=言語表現を酷使するためのレイアウト

文章を(戯曲を)書いている時の悩み。
長い文が書けず、なぜか体言止めになってしまうこと。
文章(本)をよむとき前から読めない。
小説であっても。時系列が分からなくなってしまう。(23歳)

「長い文」には、a.文頭から文末までの字数・文節が多いもの、b.いくつかの段落からなる構造化された文章が続くもの、c.複数の章立てを用いたより大きな被写体を扱うものとがあって、質問者は(戯曲を)「書くとき」には「a.」で悩んでいて、「読むとき」には「b.」「c.」の扱いに苦労しているようですね。

「a.」が書けないということは、短い文なら書けるということでもあって、構成や韻律の定型が少ないテキストを書くときなら、それはむしろ美点になりえます。だからそのこと自体はあまり気にすることではなくて、原因不明の頻出する「体言止め」のほうが根深い悩みなのでしょう。その背後には何かしら書き方の「癖」があって、それをぎこちなく感じているのかもしれません。


体言止めとは? 普通名詞で

基本から確かめると、体言止めとは文末を名詞で終えることで、文の流れに弾みや溜め、切れをつける方法。すぐに覚えられて便利だけど、どうやら名詞の種類によって、文末の体言とその修飾語の関わり方はちがうようです。通例によると名詞は、普通名詞、固有名詞、数詞、代名詞、形式名詞、転成名詞(サ変名詞、形容詞の名詞化)などに分類されます。

普通名詞で体言止めするようなひと。眠れない夜、たのしいひと、みんな友達。この書き方は、構文を作り込まなくても、軽やかに主題を示せます。被写体となるオブジェクトを、時にはごろっと、時には次々と、またある時には切れぎれに並べられて。登場人物の台詞や小道具の動きが小刻みに変わる場面を書くとき、こうなるのは自然なことなのでしょう。代名詞も同じですね。今夜のご注文は、こちら。大好きなあなた。そんな私。


固有名詞で、形式名詞で

固有名詞はどうか。はるばる来たぜ函館。疑惑の深まる首相官邸。新曲をリリースしたDAOKO。この体言止めを使って、一文の終わりにだれもが知る名前を持ち出すことで、それまでに書かれたいっさいの修飾節を、その名前が丸ごと引き受けてくれる。数詞もよく似た機能でしょうか。お値段たったの2万円。きみの瞳は一万ボルト。私が誰よりいちばん。修飾節を数字で引き受けることで、価値付けや序列、量の意識を強くもたらします。

形式名詞で体言止めするのは簡単なこと。ご覧の通りにお手のもの。すぐできるのがいいところ。脳内再生される語りを、出るに任せて文字にしていくと、この書き方になりやすいよう。「こと」「もの」「ところ」は語調を整え、構文をまとめ、やわらかくする。そこがいい。と書いたってかまわないわけです、別にね。あまり気になるようなら、語りは止めずにいったん書いて、あとで読みなおして書き換えるといいのでしょう。


転成名詞は困りもので

歯切れのいい語りにひと役買ってくれるけど、時制をあやふやにするし、その文章を他の文章から切り離して、意味を宙づりにすることさえある。四十代にありがちな肩の痛み。腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動。悲しすぎる息切れ。存在の耐えられない軽さ。

主語と述語をしっかり立てるようにし、接続助詞をつまく使えば、転成名詞の体言止めについ頼るのを防げます。肩の痛みは四十代にありがちで、腕を前から上にあげて、大きく背伸びする運動でやわらぐと聞いたのだけど、悲しいことにすぐ息切れしてしまって、じぶんの存在はなんて軽いんだと思う、その軽さに耐えられない。


「戯曲」とはどんな文章か

ここまではどの文章にも言えることで、「戯曲を書くとき」に、体言止めの多用が起きがちになるわけを考えてみましょう。とはいえ僕は劇作の熟練者ではありませんから、恥を覚悟で当たり前のことを意味ありげに言うくらいしかできないのですが。

「戯曲とは何か」にすっきり答えるのは難しいものの、児童演劇作家・西上寛樹の調べによると、『演劇百科大事典第2巻』(平凡社, 1960)が『輟耕録』(陶宗儀, 1366)を引用して、「戯曲」の語源を「雑戯の歌曲」だとした説があるという。脚本や台本、シナリオ、台帳といった諸語の上位概念として用いられたり、a Dramaの訳語に当てられもする。より狭義には、とくに「精読」に耐える形式と表現を持つテキストを指すこともあるようです。つまり「戯曲」とは、心とからだを動かすために、指示とリズムに合わせて声を出すために、じっくり読み解かれる文章のことだと言えるでしょうか。


禁じられたリズムの代わりに

ついさっきぼくは、「体言止めとは文末を名詞で終えることで、文の流れに弾みや溜めをつける方法」だと言いました。「弾み」や「溜め」が欲しくなるとき、日本語話者に身近な道具は韻律です。七音・五音。その背後にある八拍子(エイトビート)。奇数音を構成する三音・二音。

リズムの偶奇を禁欲するとなると、代わりに「弾み」に使えるのは、感嘆や連呼、句読点の操作といったアレンジのパターンで、あまり多用するとテキストが大味になる。「溜め」が欲しいなら三点リーダや二倍ダーシ、行空けを駆使することになるけれど、これは読み手が「呼吸」を合わせてくれて、はじめて成り立つする仕掛けである。

他のやり方を選びたいとき、導入しやすいレトリックとして、体言止めが増えるのは自然なことかもしれません。とりわけ、歴史的にも実用的にも、「声に出して読む」ことが、その形式の深いところで定められている類いの文章を書くときには。


「空間」解像度への高い要求

別の理由も見つけてみましょう。「戯曲を書くとき」には書き手の注意を散らすものごとがたくさん目の前にやってくる。「光りが当たる・暗くなる」「場所がある」「筋書きに沿って」「場面が作られ」「複数の登場人物が」「同時に、一緒に、ばらばらに」「ものを使って」「音・声を出す」「からだを動かす」「表情を変える」と、作者の想像に求める負荷が大きい。

架空の空間のモデリングをそれなりの解像度で行わないと――あるいは「行わない」という判断を注意深く下さないと――、筆が先に進まない、きちんと発話できない。「~という体で」「~のふりをする」「~ものと見なす」姿勢が間断なく求められる。むずかしく言えば、実験条件の制御をエンドレスに行う処理装置にならなきゃいけない。

となると、ひとつひとつの記述に費やせる力はおのずと小さくなり、一行に詰め込まれる内容は、疏にして濃だが密ではいられない。書き手が文体に切れを求めるとき、体言止めがうってつけの道具になるのもうなづけます。


使いすぎをどう防ぐか

方策はいくつかあります。「文章(本)をよむとき前から読めない」のはなぜかを考えるところから切り込んでいきましょう。

誤解のないように書いておくと、この文章の作者もまた、「前から読む」のがどちらかといえば苦手です。ページめくり方向に沿った章立てを順繰りに読むのはまれで、見開きを読むときでさえ、読みの焦点があちこちに飛んで、一文ずつの並びを追う姿勢に落ちつけない。いかにもなオープニング、もったいぶった序論、形式だらけの第1話に出くわすと、早送りしたり、読み飛ばしたり。

この症状がなぜ起きるかは(少なくともぼくにとって)明らかで、手順を踏むことへの居心地の悪さです。一文、一段落、一章、一編、一冊、一連、一人、一生。どのような単位であれ、「ひとつにまとめる」語り方には「きちんと」「終わらせる」意識が働いて、それが効きすぎると、まっすぐ引いた単線をぶれずに歩かされるような緊張感が出てくる。

謎解き(ミステリ)や宙づり(サスペンス)、おののき(ホラー)にはうってつけの、だけど胃を刺すようなそのお約束に付き合いきれないと感じるとき、乳幼児の注意の矛先が日々のあれこれをめまぐるしく飛び交い、のべつまくなしに降り注ぐように、動きを堪えてじっと見つめる姿勢がどうも続かなくなる。どうして昨日の次は今日で、明日にならないと今日が終わらないんだよ、と。


もっと気楽に散歩したい

文章の出だしというのは、長い長い長い長い歴史の「途中」を切りとって、お話づくりの都合で「ここが始まりですよ」と笑顔でお客を迎え入れる正門に過ぎませんから、ことさら順番を気にせず、好きなところから読んでかまいません。

推理や数式はそうも行かないとはいえ、ソースコードの不具合を調べるとき、論理の詰まりを起こしたところから読み返すように、史実を辿って古い文献を探しては見つけ、見つけては読みとくように、分からないことに出会わしてから、そのたびごとに「前」に戻っても不便はない。


絵を! 習慣が許せば

とはいえ時間は「先」に向かって進むし、日常は情け容赦なく不条理だから、複雑に入り組んだ「できごと」のまとまりから、目的地まで最短で行ける脈絡を探し出すには「正気」と「慣れ」が欠かせません。体調管理と習慣づくりを地道に続ける、筋力トレーニングにも似た日々を過ごすことが早道なのだけど、からだの疲れや神経の弱り、根気の途切れがそれを許してくれないなんてよくある話です。

じぶんの心身が元気なときに限りますが、面倒がらずに「絵」を描いてみるといいのでしょう。きちんと具象しなくてよくて、ざっくりしたスケッチですらなく、本人にだけ分かる描線でも、簡略にした図表でも、丸や四角に矢印でもよくて、頭のなかで思い描くのでもいいし、紙に手描きしてもいい。

一文のなかで何が起きているか。二文目とはどんな関わりにあるか。段落ごとのつながりは、章全体の流れはと、その文章に流れる時間と、空間の広がりに直面しようと試みれば、だんだん脈絡がつかめてきます。慣れれば素早くこなせるでしょう。

図説や絵解きを見本にする手もありますね。とにかく数をこなすうち、その文章を覚えるのにうってつけの記憶プロセスが定着してきて、より長く、より大きな文章でも、その大河のような起伏が追えるようになることでしょう。


終わりに

脳神経科学は、「ヒト」が世界を認識するときに、「先どり」と「後づけ」を瞬時に組み合わせて成し遂げていると示しつつあって、法に基づく文明は、この動作を基礎とした論理で作られています。

その研究史が明らかにしたのは、私たちが何かに脈絡を見出せるわけは、遺伝子配列に予告された脳の挙動がすべてを決めるのでもなければ、世界の側に抗えない物理法則が埋め込まれているでもなくて、脳と外界の相互作用によって形づくられていくようです。だから何なのか……を考えるのに、今日はもう疲れてしまいました。この話はもうおしまい。(文:笠井康平)


(本編はこちら)


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