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曽水に生きて 下編を終えて

ラストの下編は、大坂の陣に始まり、家康公の死、それから尾張藩の付家老時代、犬山城拝領を経て、小吉の最期を描いた。しかし、家康公が亡くなってからの小吉(正成)の資料は激減するため、文章の内容が、作者の思いに片寄ってしまった気がして、試行錯誤を繰り返しながら、仕上げた。だから少し時間がかかってしまった。
最後は、藤堂高虎の家に伝わる家訓のパクりでないかと思われる成瀬家に伝わる「正成公御遺訓」を書かせていただいて、締めくくらせていただいた。私はこの「正成公御遺訓」が大好きだ。この考えは、家康公の好きだった論語から来ているような気がする。なぜ私が好きかというと、今の時代にも通用する内容と思われるからだ。例えば、「誰もが良い人と褒める人物に及ばないまでも真似をし…」とかで、良ければ一度お読みいただきたい。今の時代は、経営者の独断ではなく、雇用者の意見も聞きながら、時を過ごしていくことが慣用だ。それを成瀬家は、江戸時代後期にこの「遺訓」の内容を実践し、そして事なきを得ているような気がする。
それは「殿様」でなく、「経営者」の証かもしれない。付家老は最初、幕府の御三家に対して目付みたいなものだった。それがだんだんと時代を追うごとに藩の運営の中心となっていき、幕末になると尾張藩には、なくてはならない存在となっていた。そして藩に独立しても、尾張藩の付家老との兼任であったと聞く。明治時代以降もこの主従関係は変わらず、何か相談事があると、尾張公に相談するのだ。犬山城の個人所有にも、かなり関わってきているようだ。今財団の理事にも、尾張様にはなっていただいている。
それから良く「犬山城は他の城郭とは、違う雰囲気を感じる」と言われるが、その要因の1つに、自慢するわけではないが、やはり「日本最古の天守閣」と「約400年間、所有者が変わらなかったこと」が大きいと私は推察する。他とはちょっと違う。それとそのせいもあってか、財団所有の所蔵品も多く残った。周りはその重要性を残念だが、あまり理解してくれていないかもしれないが。これらを維持するために、明治時代以降、どれほど成瀬家が、犠牲を払って来たのか。精神的にも、金銭的にも。それが「殿様のブライト」だったという一言で済ませられたら、こんなに悲しいことはない。
時代時代、色々と感じる事柄はあったと思うが、こちらも相手に、逆にそう思わせる態度があったかもしれない。しかしそれは、この時代まで、武家というものがどういうものであったかを貫きたい、それが「徳川家康公の教え」だったという一念であったと、どうか信じていただきたい。
小吉正成の小説は、一番長くなってしまったかもしれない。
これからは、各歴代の話となる。江戸時代、尾張藩にあまり波風は立たなかったと言いたいが、代表的なところでは、宗春公事件や幕末の青松葉事件などある。他にも色々あるのだ。色々調べて、時間がかかるかもしれないが、また文章にまとめて、このように発表していきたいと思っている。


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