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「したい」と「しよう・しなければ」

ここ数日、自分としてはかなり活動的に動いていたからか身体も少々疲れ気味で、さらに今日は何も予定がないことをいいことに、何をする訳でもないだらっとした時間を過ごしました。

いつもどこかで思っていることなのですが、僕はもし本当に本当に、何の気兼ねもなく「何もしなくてもいい」という状況になったら、きっと何時間でも何日でも何にもしないで過ごせる人なのではないかって。ひたすら横になって、お腹が空いたら食べて、そしてまた横になって。iPhoneを片手にSNSやニュースを横目に流して、疲れたらやめて。うとうとしたらそのまま眠る。こんなことを、本当にやっていいんだよ、やり続けていいんだよという状況がもし来たら、僕はそれを続けてしまう気がする。これを典型的な怠惰と呼ばずに、なんと呼ぼう?

でも実際にそれをしないのは、僕がそれをすることを僕自身に許していないから。何かが僕を急き立てていて、あれをしよう、これをしよう、あれをしなきゃ、これをしなきゃという考えが降ったり湧いたりしてくるんです。

僕自身の思う課題は、僕に本当の意味での「したい」ということがあるのかな、ということ。ヒトとしての三大欲求は別として、たとえば僕はこのnoteを毎日「書こう」と思っているし、こうして0:00が近づいてくると「書かなきゃ」となる。けれど、放っておいても「書きたくてたまらない」のかというと、それはどこか違うと感じる。こうした「〜したい」「〜したくてたまらない」ということが、実は自分にどこまであるのか、本当は何もないんじゃないかという気がしてくる。

だから自分が憧れてしまう人というのは、放っておいても勝手に進めてしまうくらいに「何かに夢中になっている人」だったりする。

少しわかりやすく極端に言えば、「あなたは今、誰もいない無人島にいます。あなたはそこでも、誰が見ていなくとも、今やっていることを続けたいと思いますか?」という問いに「もちろん」と無邪気に答えられてしまう人に、僕は憧れるのだ。そしてそれは、僕がそういう経験をおそらくしたことがないということの裏返しだ、という自覚もある。

だから僕を急き立てている何かというのは、きっと僕自身の「何か夢中になれるものを見つけたい」、そんな人に僕もなりたいという強い憧れから来ているんだろうな。

このnoteに書き続けているのも、「書くことが大好きでたまらない自分」にもしかしたら出会えるかもしれない、そんな思いからなのかもしれません。

書き始めてから、28日目になりました。もうしばらく、続けてみます。

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