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やりたいこと

(⚠️この記事は5年前、浪人生の時に書いた日記です⚠️)


本当に自分がやりたい事ってなんだろうか。


そもそも自分ってなんだろうか。

そんなことを考えながら生きている時間に果たして意味などあるのだろうか。

ところで意味ってなんなのだろうか。



と、いいますのも、僕は、子供の頃から将来の夢というのを漠然とも感じずに生きてました。

小学生の時でさえ夢というものを考えた事はなかったに等しいだろうか。
小学校の頃の友達は皆、

"ノーベル賞を獲るような科学者になりたい"

"子供に夢を与えられるような野球選手になりたい"

"孫悟空のような強い人間になりたい"

といった、所謂、夢を持っていたわけです。

しかし、僕は友達と夢の話をするにしても、なにか本当にやりたい事、なりたい職業や憧れの人がふっとでてこない。

その頃、最終的に出した"夢"は、

"臨機応変に何事にも対応できる人になりたい"
でした。

確かに、現代社会においては大事な人間像ではありますが、あまりにも夢というには外れている感じはありますね。

そうやって中学高校生となると、臨機応変に対応できない人はむしろ周りから支持のないあまりに寂しい人間として認識されるため、そのような人は当たり前な人だと思い、考えなくなりました。そうやって夢について考えずに生きてきたツケが今あるのかもしれません。

中学の頃、僕はドラムを始め、みるみるうちに音楽の世界に引き込まれていきました。
高校でも2年生までは勉強のことなど二の次で、ドラムばかりをやっていました。

しかし、それは一種の趣味であり、夢とするにはあまりに馬鹿馬鹿しすぎました。

音楽でメシは食っていけるのはほんの一握り、
ドラムという名の自分の欲求を満たすだけの自己満足、
大して上手くもない所詮井の中の蛙、
と、自分を客観的に鑑みた時、自分の愚かさ、無力さに哀しくなったわけです。

そうして高3になり、受験をするにあたり、進路を考えるにおいて、他の友達がやりたい事や行きたい大学が決まるにしても、なぜそう決めれるのか僕には不思議で仕方がなかった。

高2の時に関西私立の中でも最高峰という理由だけで同志社大学を朧げながら志望していたが、結局やりたい事がわからず、化学創生と環境システムと文化情報を模試の判定に書いて、担任に進路がぶれすぎだと言われて怒られたことを思い出した。

高3の受験間近の時は、なんとなく入試が簡単そうという理由がほとんどの状態で様々な大学の都市学系学部を受けた。

僕にとって、現役で大学に行かなくてよかったのかもしれない。

浪人期間を経て、本当にやりたい事やなりたい職業はまだ見つかっていない。

しかし、周りの人たちを見ると、○都大や○阪大に行きたいという熱意を感じることが多々ある。
そして、自分がやるべき事は、自分が将来後悔しないように今を必死に生き抜くだけだと強く思った。

言葉はキレイだが、あまりに汚い生き方である。
今を必死に生き抜くってあまりに勿体無いと思う。
資本主義社会である現日本では必死にならないって論外な発想だと叩かれても文句は言えないだろう。
だが、必死になって今を生きることに未来は自ずとついてくるものだろうか。
未来というのは絶対に予測できない、そんなものに今を犠牲にする意義はあるのだろうか。

答えは 大いにある のだが、
それは間違いも孕んでいるのではないか。

未来に投資する以前にもっと今を充実したものにするべきではないか。
サルトル的に言うと、『実存は本質に先立つ』と言ったところでしょうか。

要するに自分には不安と使命感の狭間で迷い、一歩を踏み出せないでいる、ただのチキン野郎にすぎないということだ。

そんな自分は、やりたい事のために愚直に迫り来る敵をなぎ倒して一踏ん張りできるような人が羨ましい。

これが今の自分の一番の夢かもしれない。

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