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あなたの言葉を連れてゆく


 私は昔から文章を書くのが好きだ。最初は詩をよく書いていた。


 東日本大震災があったとき私は12歳だった。
 沖縄に住んでいたので揺れることもなく被害もなかったが、テレビに映る津波の映像を見ながら「本当にこれは今起きているの?」と親に何度も聞いて呆然として、間に合わずに呑まれる車の姿を見ながら苦しい気持ちになったのを覚えている。

 そのときもたくさんの言葉を書いた。
 無力さと不甲斐なさと、それから悔しい気持ちから怒りになって書きなぐったこともある。
 どうしてたくさんの命がなくなったのか。
 人だけではなく、動物や植物の命がなくなったのも悲しかった。

 奇跡の一本松は希望ではなく、その他に流された多くの松に思いを馳せた。

 そんなことがあって、もっとよく詩を書くようになった。

 中学に上がって一年生のころの担任は国語の先生だった。私は宿題の余ったスペースによく詩を書いた。

 そうしていると、家庭訪問のときに先生が私の書く詩が好きだと言ってくれた。
 その詩の一言一句は覚えていないけど、ひとフレーズ覚えているのが

道ばたに咲いている花を見たら何を思うだろう。
私はそっと微笑むかもしれない。

という詩。

 震災のとき波に呑まれる草花を見て、誰も人の犠牲に嘆いて目を向けてくれない植物に対して、私だけでもちゃんと生きていたことを思っているよ、という気持ちがあった。そのひとつひとつが生きていることに思いを馳せたいという気持ちから書いた詩だ。

 それを好きだと言ってくれた。
 それに初めて人に、私が書いた文章を好きだと言われたのがこのときだった。

 とても嬉しくて、でも恥ずかしくて、それからあまり宿題に詩を書かなくなってしまったけれど、

 今でも文章を書くのを挫折しそうになったとき、書くのが苦しいとき、その先生の好きだと言ってくれた言葉を思い出す。

 原点にして1番の支えがその言葉だ。


 それからもよく言葉を書いた。詩がほとんどだったけど、少しづつ考えや物語も書いた。


 高校二年生の時の担任も国語の先生だったのだが、ふと担任に「文章書くの好きでしょ?」と言われた。

 私はびっくりしたのもあって笑顔で「はい!」と答えることしかできなかった。

 もうそのときには、自分の書いたものを自分のなかに留めることしかしていないくて、担任の先生が読んだ私の文章と言えば、夏休みの課題にあった意見文だけだったから、その意見文だけで文章を書くのが好きなのが分かってしまう文体をしていたのだろうかと思った。

 その意見文は、クラスの前で読んだ。
 私の祖父についてだった。私の家は全体的にちょっと晩婚なので、祖父はちょうど第二次世界大戦で兵士をしていた世代だ。
 祖父は体が弱く衛生兵だったのだか、そのときの話から戦後の焼け野原になって何も無い沖縄で医療に携わった話をした。
 祖父の生き方と立ち振る舞いから私がどう考えてどのような人になりたいか、と。

 クラスメイトの何人かには泣きそうになった。と声をかけてもらった。

(今度実家に帰ったとき見つけたらnoteに載せようと思う。)

 多分そういう熱い言葉を書いたので、書くのが好きだろうと思ったのかもしれない。

 そんなで、担任を受け持ってもらった国語の先生には文章を書くのが好きなのがバレてしまう青春時代を過ごした。


 先生たちからもらった言葉をいつも私は大切にしている。

 いつかお礼を言いたいと思っているのだけど、ずっとタイミングを逃している気がする。
 中学の国語の担任は住所を知っているので今度手紙を書こうかな…


 あとは、これはもう遅いのだけど。
 高校の国語の担任はもう亡くなった。まだ若かったのだが癌だったらしい。

 だからどんな言葉ももう先生には届かないし、私が文章を書くことで大成しようとも報告ができない。

 高校の修学旅行で、私は気分が悪くなって途中で班から外れてホテルに帰ったことがあるのだが、そのときその先生が一緒に帰ってくれて、寒かったので手を握ってくれたのを覚えている。恥ずかしかったのだが、その感触や温かさを本当によく覚えていて、私の手を温めてくれた体温がもうこの世にないのかと思うと悲しい。


 私は書き続けるしかない。
 書いて、たくさん書いて、届かなくても私は思っているよ。とずっとあなたの言葉を連れていく。


 ちゃんと私を見てくれた人たち。
 ちゃんと私に向けてくれた瞳を覚えている。かけてくれた言葉を覚えている。

 ちゃんと先生としてくれた愛情を受け取っている。

 私はその言葉があったから、書き続けている。


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