見出し画像

女性らしい魅力とそれに縛られること

 学生時代、酔うと女性の肩を抱いたり、腕を掴んだりする男性が、友人の中にいた。毎回というわけでもなかったし、逃げる女性を追ってまで無理やり、というわけでもなかった。だからといって、その行為が許容されるわけではないのだけれども、今回はその問題点については置いておく。
 僕はある時、友人のその悪癖について、酒の席で軽く指摘したことがある。すると友人は大きな声で「(筆者)にはするわけないじゃん!」と、慌てて否定した。その後もなんだかんだ色々な主張をしていた覚えがある。
 そうやって捲し立てる姿を見ていて、僕は素直にショックを受けた。当時の僕は自分が心も体も女性だと思い込んでいたからこそ、女性としての魅力が筆者にあるわけがないと真っ向から否定され、ショックを受けた面もあろう。別にその友人に何か特別な気持ちを抱いていたわけではないが、その否定にショックを受けたのだ。
 では、その言葉になぜショックを受けたのだろう。当時と今では、理由は異なるかもしれないので、ここではあくまで今の僕が考える理由としておく。
 まず友人の言葉は、女性としての魅力がない、ということを意味した否定である。つまり魅力がないと思われていることは、ショックにつながるということになる。
 次に友人が慌てて否定したということは、周りにいる人間に、女性として魅力のない女性にまで手を出すと思われては、恥ずかしいと認識しているということだ。
 この二点に共通しているのは、女性として生まれたのならば、女性らしい要素が備わっていない限り、それだけで価値のないものとされる考え方が前提にあることではないだろうか。簡潔にするために価値がないという強めの否定になっていることはご容赦願いたい。
 女性としての魅力がないと告げられてショックに思うのは、その魅力がなければ価値がないと無意識に考えている。女性としての魅力のない女性に手を出すのが無節操で恥ずかしいとされるのであれば、魅力がなければ価値がないと考えている。
 この考え方が根本にあるからこそ、ショックを受けたのだと、今の僕は思う。自分自身が無価値だと暗に告げられれば、確かにショックだろう。
 しかしながら、そもそもこの根本の考え方自体があまり良くないものではなかろうか。
 世に溢れている情報から、どうしても、ふくよかな胸元なり、くびれた腰なり、そういった所謂女性らしい見た目を持つ女性の方が、異性からの注目を集める、と思われがちである。実際にどういう人が相手を見つけやすいのかどうかわかりはしないが、女性らしい要素を持たない人が自信を失ってしまうことは往々にしてある。
 だが、本来であれば、自分に価値があるかどうかを決めるのは、自分だと思うのだ。そうであれば、他者からの評価ではなく、自分からの評価を第一にすべきだと思う。たとえば、他者からよく見られたいのであれば、他者からの評価を気にするのもいいと思う。自分自身が、女性らしい魅力を持ちたいのであれば、そこを気にするのもよいと思う。ただ、そうではないのならば、自分自身の好きを見つめていたい。短い人生、他者に振り回されるより、一番好きな自分になれるように生きたいと、僕は思う。
 そもそも女性ではない僕にとって、女性らしい魅力はいらないので、無意識に他者からの評価を気にしていないか、自分を型に当てはめて偏見に縛られていないか、といった面に気をつけようねという意味合いで、時々あの酒の場を思い出しながら、言い聞かせている。
 もちろんそういった発言をしないように気をつけてもいる。
 そんな小さな積み重ねが、自分に対する好きに少しずつ繋がればいいと願っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?