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とある春 十句

数年前のこと。心身ともに絶不調、公私多忙を極め、にっちもさっちもいかない毎日を騙し騙しやり過ごす、そんな時期があった。張り詰めた弦のように、なんて、長続きするはずもない。いつか破綻する、ぼんやりとそんなことを思っていた私に、遂にその日が来た。ある出来事をきっかけにして薄氷は割れ、私はどん底で両手を地面につき、呆然としていた。
一縷の望みをかけて縋りついた人は、私を憐れみ、哀しい目をして、切り捨てた。最も近くに居たはずの人でさえも、助けてはくれなかった。裏切りにあった、その酷い事実だけが、私の頭を支配し、どちらへ向かえばいいのか、判断がつかなかった。
何か大きな黒い塊を胸の奥に抱えている。それをなんと名付ければいいのかわからない。息ができなかった。当時の私に何ができただろう。冷たい手足を持て余してうずくまる以外に。
心臓は働きを止めようとしていた。なんのために私は存在している?消えてしまえばいいのか?そして気づけば、その大きな黒い名付けがたい塊を小さくちぎり取っては、十七音に押し込んで、ただただ吐き出していた。その作業だけが、私にできることだった。
俳句は人生の杖、その言葉を実感した経験。塊のまま抱えて生きるには重すぎた出来事も、俳句という器に少しずつ少しずつ盛って結球させて手放すことで、私は立ち上がることができるようになっていった。時間はかかったけれども、自分で自分を立たせてやるために、俳句はしっかりと役目を果たしてくれたと思う。
乗り越えたわけではない。一生忘れることもない。怒りも悲しみも諦めも惨めさも。ただ、俳句は残った。あの時期の私のもがき苦しむ姿を断片的に写して。

 とある春 十句 津島野イリス

審判の絵を読み解く日花馬酔木
芽柳の無数に我を打ち据えぬ
眼前の地獄を告げよ春の泥
霾や馬型土器に有る乳房
西行忌波状の舵の迷走す
木煉瓦光れる床や蝌蚪生まる
黒々と鉄絵陶板歪む春
「戦争と平和」なる壷草萌ゆる
落椿ぐにゆりぐにゆりと踏み潰す
聖痕は我が胸に在り鳥雲に



とある春 十句 津島野イリス

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