祖父が死んだ話

 父方の祖父が死んだ日の夢を見た。ドラムを叩きながら、祖父の好きな曲は意外と新しい曲だったのを思い出した。電車で囲碁の話をしていたお年寄りと孫を見て、いつかの自分を思い出せなかった。

 記憶が、抜けていく感覚。今日会った友人の事を、駅で見つけるまでに時間がかかった。会っても思い出せなくて、それどころか今日会っていたことを先ほどまで忘れていた。嘘だと思えば思う程記憶の維持ができない。昨日まで確かに覚えていた問題もすっかり忘れている。学習に関する記憶、普通の記憶ともに抜け落ちていっている。日記を最近書いていなかった。だから、本当に何もわからない。そのくせ、ふと出てくる言葉もある。ただ、思い出せない。そんなもどかしさを抱えながら生きている。

 祖父が死んでもう6年がたった。私が免許の卒検に受かった翌日に息を引き取った。葬儀中、誰かが「いろはちゃんが無事に免許を取れたのを見届けたのよ。」と言った。それを聞いた祖母が号泣していた。葬式というのはいろんな世間話が飛び交って、実にくだらなく退屈なものであった事は覚えている。嫌味をオブラートに包みつつ、でも言わなきゃそのへばりついた笑顔を保てないんだろうなというような言葉だらけだった。

 私にだけ、遺書と闘病中に書いたであろう手紙が残されていた。遺書の方は祖母だか叔母が破り捨ててしまったけれど、私への懺悔と期待と後悔と希望を込めた遺書は、当時の私には気持ち悪く思えてコピーすら、父親に預けてしまった。それを読んだ際、祖父との記憶がなくなっていることに気が付いて、悲しくなった。

 つい先日、祖父の部下と会った。私は祖父の話を聞かされた。それにより、忘れていた記憶が鮮明に思い出されたので記していきたいと思う。

 祖父は寡黙な人だった。流石元警察官というべきであろうか。昭和の代表のような人であった。小さい頃、私は毎日祖父と囲碁をしていた。記録もあるけれど一切の記憶がないため、囲碁のルールすら覚えていない。祖父と言えば、字が達筆だった。言葉が綺麗だった。私は字がコンプレックスで、幼稚園の時から祖父の読んでいた新聞などを見よう見まねで写していた。祖父が毎日新聞を音読してくれて、それが私の今日までの語彙力に繋がっているといっても過言ではないだろう。記憶がなくなっても語彙力が低下しなかったのは、こういった根底の部分の影響が大きいと思っている。

 祖父は、一度たりとも私へ、私の父の文句を言った事がなかった。祖母にはトラウマになるくらい言われて、その影響で今でも従弟家族の面倒を私が見ている。祖父が生きていた頃、祖母が私へ父の文句を言っているのを聞くたびに「実の父親の事を悪く言われていい気持ちがする娘などいるわけないだろう。」と言って私を近くの公園へ連れて行ってくれた。本当は祖父が一番父親の文句を言いたいだろうに、死ぬまで一度も、ただの一度も言った事はなかった。

 ただ私は、祖父の事が嫌いであった。これは従弟の影響が大きい。従弟も私と同じく、ネグレクトされていた。しかし、祖父の家で面倒を見てもらっていた。その扱いの差が当時の私には辛かった。祖父に一度「助けてくれ」と頼んだことがある。父親の紹介先で揉め事を起こして父親に殺されかけた時だ。忘れもしない、フライパンで100回以上殴られて近所の公園まで髪の毛を引きずられた。自転車を振り落とされて骨にひびが入ったのは今では父親と笑い話にしている。家から祖父の家が近かったから藁にもすがる思いで逃げていった。祖父は驚いて急いで病院に連れて行ってくれた。ただ、「ごめんね。いろはを引き取ってあげる事は出来ないんだ。従弟で手一杯なんだ…。」と言われた。

 あの時私を救い出してくれなかった祖父を死ぬまで嫌悪していた私は間違っていたのだろうか。最近よくその事を考えている。

 祖父が弱った原因は従弟の子育てである。身長が170後半もあった祖父は、子育てのせいで腰が曲がり、170あるかないかくらいになってしまった。75歳を過ぎても子育てをしなければならないなんてかわいそうだと近所の人が噂をしていた。私が高校に入ったころ、祖父が肺気腫で入院した。ちょうど私が母親の精神疾患が悪化してその対応に追われていた頃だ。家族に説明するから来てくれと言われ、祖母と叔母(従弟の母親)が言ったが、何を言っているかさっぱりわからずに私に話が来た。当時15歳の私が家族代表で説明を受けるのも医師からしたら変だと思っただろうが私は聡明な子どもであったため、あくまで祖父が心配だからという体を装っていた。なかなかお見舞いにはいけなかったが、できるだけ行くようにはした。いつも従弟二人が喚いていて、周りの患者には「本当に大変ね」と同情されていた。祖父は、将棋を指していた。祖父が肺の痛みで発作を起こした時、従弟や叔母、祖母は驚いていたのに対し、私があまりにも無表情でナースコールを押して態勢を変えさせていたのを医師に今でも弄られる。祖母には「悪魔の子」と言われた。しかし、祖父は私たちの居ないところでは凄く苦しそうにしているとほかの患者が言っていた。私たちの前ではいつもの祖父として保っていたのがいよいよ無理になったという事は相当悪化しているんだろうと思っただけなのだ。祖母は「あんなに丈夫だったおとうさんが…」とふさぎ込んでしまったし叔母はそれをいいように利用して散財していた。従弟は見舞いに行きたくないと駄々をこねていたし、祖父の事をちゃんと見ていたのは私だけだったと思う。弱っていく人間から逃げたくなる気持ちは、今ならわかるが当時はわからなかった。

 死ぬ前日に、私は祖父に電話をしたのだ。「卒検受かったよ。来週にでも免許センターで取ってくるね。安全運転で一生過ごします。」これが最後のセリフであった。翌日、父親と裏磐梯で凍った山を走っていたところに訃報が届いた。

 茨城に帰るまで、私と父親はどんな話をしていただろうか。父は「免許見せてあげたかったよな。いろはの運転でおじいちゃんと大子まで行きたかったな。」と言っていた。私は「親不孝なのに一丁前に語るなんて偽善者が。」って悪態をついていた気がする。いつもなら殴られるがその時は時速95㎞で延々と走っていた。

 祖父は、叔母たちの見舞いのすぐ後に亡くなったらしい。死ぬところを誰にも見せなかったらしい。毎日お見舞いに来ているのに、最期が一人というのは祖父らしいなと思った。私が着いたとき従弟が泣いていて、叔母も泣いていた。叔母の彼氏がその家の代表のような振る舞いをしていて不快だった。私に向かって「どちらの方ですか?今は近い身内だけで…」といったあの男の顔は今も思い出せない。来た親族が「南無妙法蓮華経」と手を合わせていったが、私は一度もそうすることができなかった。祖父が嫌っていたのを知っているからだ。

 葬式当日、私は親族席で従弟を抱いていた。幼稚園児の方の従弟はまだ祖父が生きていると思っているのか「なんでいつまでもねてるのー」って言っていた。私は「んー疲れてるんだよきっと。それか私たちを驚かそうとしてるんだよ。」って言って敢えて死んだという事実を告げなかった。

 上の従弟とはとこが手紙を読むシーンがあり、私は従弟二人が書いた手紙を読んだ。生意気な従弟の珍しく素直な言葉と死を理解していない従弟の手紙によって、叔母は泣き崩れていた。私は読みながら母方の祖父が亡くなった時を思い出していた。その時は私が手紙を読んでいた。「キリスト教徒ではないので天国と地獄という言葉は間違ってるかもしれませんが、私はそれしかしらないので~」などと可愛げのない文を書いていたので従弟の素直な文に驚いた。

 ここまで書いていて気付いたが、意外と祖父のことを覚えているのかもしれない。記憶の混濁も、気持ち悪さもあるけれど、それでも祖父という存在を受け入れることが出来るようになったのかもしれない。ただ1回忌以来祖母とは会っていない。きっと死ぬまで会うことはない。祖父の死が私と父方の家の関係を切ったのは言うまでもないことだろう。

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