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受動態の無い世界


國分さんの『暇と退屈の倫理学』が面白かったので、かんぱつ入れずに、『中動態の世界』を読み始めました。

わたしは読むのが遅い方だと思うのですが、初日で3分の1くらい読んでいました。

いくつかの大事なキーワードについて、繰り返し復習しながら、著名な哲学者たちの考えを少しづつ追加しながら進めていく感じで、新しい概念が、ストレスなく分かっていくようで、嬉しいです。

能動態でも受動態でもない、「中動態」というのがあって、それが現代社会の様々な問題を考えたり解決したりするのに役立つ、という内容になるのだと思います。

それはそれで楽しみなのですが、3分の1読んだところまでで、ずっと気になっているのが、「かつて受動態は存在していなかったかもしれない」という説についてです。

この本の主旨からはずれて、昨日からずっと受動態について考えています。それをちょっと書きとめておこうと思います。

この事実はそれをはじめて知った者にとっては驚くべきものである。能動と受動の対立はふだん、あたかも必然的な対立であるかのように、われわれの思考の奥深くで作用している。そして、それをなぞるかのように文法も能動態と受動態の二つの態をもつ。しかし、もともとそれとは別の態が存在していたし、別の対立が存在していた。能動態と受動態の対立は普遍的でも必然的でもない。
『中動態の世界』國分功一郎(著)34ページより


能動と受動の区別が、かなり無理のある強引な区別であるのは、そもそもそれを発生させている能動態と受動態の区別が少しも普遍的ではなく、それどころか歴史上新しいものであるからではないだろうか?  歴史のある時点で、何らかの理由から能動と受動を対立させるパースペクティヴが言語のなかに導入されたが、その導入時のがこの区別の粗雑さに表れているのではないだろうか?
中動態なる態が存在していたという事実は、このような仮説を立てることを可能にする。
『中動態の世界』國分功一郎(著)35ページより


確かに、受動態は無くても、会話に支障はないように思われます。
小さな子どもがお友達から叩かれた時に、「ゆうくんから、叩かれた」と受動態で言わずに、「ゆうくんが、たたいた」と能動態で言ってくることがあると思います。

こんな風に、受動態で言うのが「普通」になっている場面でも、能動態で言うことは可能なのかもしません。
ちょっと違和感があって、無理やりな感じがするにしても、言おうと思えば言えると思うのです。

そして、能動態に言いかえて言った方が、わたしの感覚にピッタリくる感じがするのです。

むかしからずっと薄うす気になっていたことですが、受動態での言い回しは、消極的だったり、責任転嫁して無責任だったり、相手に対して無力感があったり、被害者意識になったり……と、なんとなく受け身で嫌だと感じるのです。
まあ、「受動態」なんだから、そのままですが。

例えば、
「彼女から愛されていない」受動態
→「彼女は僕を愛していない」能動態

受動態だと、暗に、「僕はこんなに愛しているのに、彼女からの愛は少ない。不当だ。許せない。」あるいは、「僕には、彼女から愛されるような魅力が無いのかもしれない、そもそも資格が無いのかもしれない」となってしまう気がします。文体的な流れとして。

一方、能動態だと、「僕は彼女をとても愛している。しかし彼女は僕をそれほど愛していない。それは仕方のないことだ。自分もそうであるように、人の気持ちなんて、操作できないものだから。そもそも、たまたま好きになった相手がいたとして、その相手の方も都合よく僕を好きになるという確率は、そんなに高くないはずだから。とりあえずいっしょに居てくれて、楽しそうに過ごしてくれているだけで幸せだ。」なんていう流れも、文体としては自然に可能だと思うのです。

こうやって書いてみると、能動態の方が、相手を自分から切り離して、客観的に見る流れになる気がします。

後で、もうちょっと別の例でやってみようと思います。




「客からクレームを言われた」受動態
→「お客様が、当社に対してクレームをおっしゃった」能動態

受動態だと、「どうしよう、どうしよう。やばい、やばい。とりあえず謝って許してもらおう」あるいは、「むかつくクレーマーだ。どこでも言ってるんだよ。ぜったいカスタマーハラスメントだよ」という流れになりそう。

一方で能動態だと、「お客様は何に対して、どのような状況を問題にしているのだろう? できれば詳しく確認しよう。そして、当社の問題点や改善点があるか検討してみよう。これを機会に、サービスや商品を向上させることが出来るかもしれない。」あるいは、「機嫌が悪かっただけか、クレーマーなのかもしれない。同様のクレームが上がってないか確認して、もし違法行為やカスハラなどの対処が必要な案件ならルールにのっとって対処しよう」と、ちょっと恣意的な作文ですが、文の流れとしては可能だと思います。

わたしだけかもしれませんが、能動態の方が、冷静に客観的に、自分が責任をもって、前向きに行動して、解決したりして、より良い方向に向かえる気がします。



「会社でイジメられている」受動態
「会社で、同僚や上司ら数人が、僕に対して理不尽だと感じる行為をしてきている」能動態

受動態は、だいたい想像がつくと思うので、まず能動態だけ考えてみます。
能動態だと、まず簡単に書けないということに気づきました。
「会社で、イジメる」だとおかしいし、幼稚になるので、まず、「誰が」を特定しないと文章が成り立ちません。
そうなると、「同僚や上司」の全員なのか? 全員じゃないとしたら、誰と誰と誰なのか? 具体的に、いつ、どんなことを言われたのか? 彼らは、僕に対して、どんなことをしたのか? 合理的な理由は考えられるのか? 証拠は? などと分析していく流れが出てくると思うのです。

一方で、受動態だと、
「それはツライね、かわいそう」「会社は何をやってるんだろうね。見て見ぬふりかね。ブラック企業だね。労働基準監督署に連絡したら。精神的な苦痛で慰謝料とろう」と、安易に短絡的に流れていきそうだと思います。



「受動態はダメ、能動態に変換して考えるべき」と言い切ってしまうと、ちょっと極端だし、自分でも、受動態が良い場面もあるかと思います。

まあでも、受動態にちょっと違和感を感じたら、ちょっと能動態に変換して書いてみて、文体の流れを見てみるのは、有効だと思っています。








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