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【小説】「好きが言えない」(第一部完結)

――野球女子・春山詩乃と、野球青年・本郷祐輔の物語――

プロローグ

 玄関の一番目立つところに飾られたトロフィーは父の自慢だった。
「県大会で準優勝ってのは、埼玉じゃすごいことなんだぞ? なんせ出場校が多くて、予選を七回も八回も戦わないと決勝に進出できないんだからなぁ」
 県内で甲子園の土を踏めるのは、百以上ある高校の中の一校だけ。その、一枚のカードを手にするためにみな、血のにじむような練習を重ねる。そして日々の努力を継続できた者たちだけが栄光を手にすることができるのだ。
 父は知っている。野球のすべてを。そのうえで、幼いころから私にこう言い続けている。
「詩乃(しの)。お前ならきっと行ける。甲子園にだって、きっと」と。




 手渡した「退部届」を、永江部長はしばらくの間静かに見つめていた。
 私は沈黙に耐えかねて退部の理由を告げる。
「もう、みんなと一緒にやれる自信がないんです。体力差も広がる一方ですし、これ以上足手まといになる前に身を引きたいんです」
 それを聞いた部長は小さく息を吐いた。
「確かに、男ばかりの中で一人、最後まで戦いきるというのは難しいかもしれないね。君の、さっぱりしていて潔いところはみんなも気に入っていたと思うが、春山クンが自分をそう評価し、結論を出したのなら仕方がない」
「受理していただけるんですか?」
「僕は君の考えを尊重するよ。ただ、みんなは止めようとするだろう。それは織り込み済みだよね?」
「……はい。でも、私の気持ちは変わりません」
「春山クンらしいな。退部届は確かに受け取ったよ」
「ありがとうございます」
「……いつでも、戻っておいでよ」
「……短い間でしたが、お世話になりました。ありがとうございました」
 この部でだれよりも優しいのは部長だった。その部長に、こんな最後の別れを告げられたら、なんだか後ろ髪をひかれてしまう。
 でも、もう決めたのだ。私の意志は固い。

 中学一年生から続けてきた野球部生活に、私は今日、終止符を打った。
 なんということはない。今日から「普通の女の子」に戻る。それだけのことだ。
 きっかけは二つある。
 一つは、高校男子との体力差を如実に感じるようになったということ。
 もう一つは、姉にメイクアップされてすっかり感化されてしまったということ。
 そう。父の影響で野球をやっては来たけれど、私はやっぱり女子。肌を黒く焼き、泥にまみれ、汗だくになりながらボールを追いかけるようにはできていないのだ。
 二学期最初の登校日。夏休みが明け、気持ちを新たにスタートするにはちょうど良い。私は晴れ晴れとした気分で、一年C組の教室に向かった。
「おはよ、祐輔(ゆうすけ)。相変わらず眠そうな顔してるね」
 始業式の今日は朝練がない日だ。彼は私の顔を見るなり近づいてきた。
「そっちこそ、相変わらず能天気だな! 一週間も部活休んで、最初の挨拶がそれかよ? 何かほかに言うことないわけ? 休んでた理由とかさ」
 先週一週間、私ははじめて部活を休んだ。どうしても足が向かなかった。
 理由はわかっている。夏の大会で私が凡ミスを連発し、敗退を喫したせいだ。最悪なことに五回コールド負け。あまりにも惨めな結果だった。
 みんなは慰めてくれたし、励ましてもくれた。だけど、深く刻み込まれた傷は、そう簡単にはふさがらない。敗退後の練習は全く身が入らず、一週間休み、ついに退部届を出すに至ったのだった。
「奈々ちゃんの……お姉ちゃんのところに行ってたの。気分転換よ、気分転換」
 事実を言ったところで、野球以外に興味のない祐輔が反応を示さないことはわかっていた。それでも、休んだ理由は知りたいだろうから教えてやった。
「それで、気分転換できたんだろうな? 例の試合のこと、引きずってるんだろうけど、あれはいろいろ運も悪かったんだし、気持ち切り替えていこうぜ」
 案の定、反応は薄かった。彼はまだ知らない。私が辞めたことを。さて、いつ伝えようか?
 その時、同じ野球部の仲間が教室に飛び込んできた。
「は、春山! 辞めるって、まじかよ!」
 野上だった。ポジションはライト。部で一番声がでかい。
 さっき部長に届けを出したばかりなのに、なんでそのことを知っているのよ? それに今日は朝練がないから先輩と顔を合わせることもないはず。
 詮索をする間もなく、真実を知ってしまった祐輔が「はぁ?」と怒りの声を漏らし、説教を始める。
「誰にも相談しないで辞めたのか? おまえ、相変わらずせっかちだな。一人で勝手に気落ちして辞めるなんて。
 いいか? 野球ってのは連帯責任なんだ。一人のミスはみんなのミス。そんなことは知ってるはずだろう? おれだって強豪相手に手足が震えてた。その時点でおれらはもう負けてたんだよ」
「そうそう。それにさ、負けて悔しいなら『次こそは勝つぞ』って気持ちで、毎日練習積み重ねたほうがいいとおれは思うね。辞めたらおしまいだぜ?」
 二人は必死に説得しようとしている。部長の言った通りだ。けれど、その程度で考えを変える私じゃない。
「私はもう、限界なのよ。男子と一緒にやるのは。いくら頑張っても追い越せない、この辛さは男子のあんたたちにはわからないでしょうよ!」
 はっきり言い切ると、二人はそれ以上言ってはこなかった。
 これでいいのだ、これで。私はもう、野球から卒業するのだ。

 姉から電話がかかってきたのは、寝る支度を始めた九時ごろだった。
「どう? うまく辞められた?」
「どうかな。一応、退部届は出したけど、祐輔たちに引き留められちゃった」
 祐輔は同じマンションの四階に住んでいる。だから姉も、祐輔のことはよく知っている。
「まあ、退部届を出したのなら上出来よ。あなたは一度決めたらブレない性格だもの。周りが何と言おうと関係ない。もう野球とはおさらばね」
「そうだね」
 姉は私が野球を続けることにずっと反対してきた。甲子園に行けなかった父の夢を肩代わりすることなどないと言って。
 確かに、父の言葉が私のここまでの人生を決定してきたと言っていい。私は野球しか知らないし、知ろうともしなかった。だから、部活動がたくさんあっても野球しか選べなかった。
 しかし、甲子園を目指すというのは簡単なことじゃなかった。普段の練習量では絶対に勝てない。技術だけでなく、精神力もタフでなければならない。私はその両方とも足りなかった。
 限界だった。これ以上、自分を強く保つことができそうもなかった。
 それで私は先週、姉のもとを訪れたのだ。姉は元気をなくしていた私をやさしく受け入れてくれた。
 姉は今、都内の美容系の専門学校に通うため、一人暮らしをしている。私とは正反対に真っ白な肌をしている。一緒にいて姉妹にみられたことは一度もなかった。
「またいつでもおいでよ。学校で毎日、メイクの練習してるからさ。私も練習の成果を試したいし」
「うん。今度の休みにでも行くよ。私もメイクしてもらいたいし」
 私は、先日施されたメイク姿の自分を思い出しながら答えた。
 真っ黒けの野球少女にもかかわらず、マスカラを重ね漬けし、アイシャドウを濃く入れると、奈々ちゃんとも姉妹に見える顔になった。半ば女であることを忘れていた私はこの瞬間、女であることを自覚したのである。
 私でもこんなにきれいになれると知ってしまってから、野球に対する気持ちはますます萎えていった。退部届を出そうと決めたのはその日の夜のことだった。
「よかったぁ。詩乃が女の子になってくれて。私、ずっとあんたとこういう話がしたかったのよ。野球じゃなくてね」
「じゃあ、これからはたくさんしよう!」
「やったー! お洋服も一緒に買いに行こう! そうだ! 次の休み、渋谷に行こうよ。行ったことないでしょ。案内してあげる」
 私たちは先週同様、女子同士の話で盛り上がった。

 東武池袋駅で待ち合わせ、そこから山手線で渋谷駅に向かう。
 電車も、買い物をする目的で乗ったのは初めて。とにかく、何をするにも新鮮だった。
 姉と二人で洋服を買う。姉妹なのに、今までしたことがなかった。
 初めて降り立った渋谷駅はとにかく人が多い印象だった。
「これがスクランブル交差点ってやつかぁ」
 我ながら、発言がいちいち田舎者である。仕方がない。埼玉県の片田舎からほとんど出たことのない、正真正銘の田舎者なのだから。
 そんな私を姉が笑う。
「私も初めて渋谷を歩いたときは同じこと言ったわ。でも、すぐに慣れるよ。あー、お店はこっち」
 どこを向いても同じに見え、道に迷いそうだ。必死に姉についていく。
 思えば幼少の頃も、最初に野球の手ほどきを受けていた姉に負けたくなくて、バットを引きずる彼女を必死に追いかけたっけ。
 しかし姉は、小学生になると同時に野球をやめた。それはもうスパッと。そのときから父の想いは必然的に全部、私に向かうことになったのだった。
 姉は、某デパートに出店しているお気に入りのショップに案内してくれた。
「ここの服が好きなんだ。詩乃にもきっと似合うよ。ほら、このブラウスなんて、いいじゃない?」
 好き嫌いや、似合うかどうかを考える間もなく、姉は私を「着せ替え人形」にした。次から次へと服を持ってきては試着させる。私は、初めての買い物で勝手がわからず、されるがままだった。
「どう? 気に入った服は見つかった? 私は、これとこれを買う」
 十着ほど着せられたあとで、姉は満足げに言った。
「ごめん……。なんだか、よくわからなくなっちゃって。選べないよ」
「そう? なら私が決めるね。詩乃にはこれ。すごく似合ってたもの」
 私が一番似合わないと思った、ふんわり袖のブラウス。姉の趣味に違いないと思った。
 結局、お金は出してくれるというのでそのブラウスを買うことになった。いったいいつ、どういう場面できればいいのか? まったくイメージできなかった。

 その次は化粧品売り場に向かった。先日訪ねた姉の「ワンルーム」と同じ匂いがする。いや、それ以上だ。
「この前付けてあげたファンデとチーク。それから口紅にアイシャドウ、あとはマスカラにビューラー。ぜーんぶここで揃うわ。……お小遣いは持ってきた?」
「少し。でも、とても全部は買えないよ」
 販売価格をちらりと見る。軍資金が足りないことはすぐにわかった。姉も察したようで、
「そうね……。じゃあ、あっちのブランドはどう? 高校生にも人気があるんだって」
 はす向かいに別のコスメショップがあった。確かにこちらはプチプラで私でも買えそうだ。しかもかわいい!
「私、こっちにする」
「いうと思った!」
 私が返事をするや否や、姉はさっき列挙したアイテムをすべてかごに放り込んだのだった。
 精算を済ませると、財布はすっからかんになってしまった。もう帰りの電車賃ほどしか残っていない。これではランチすらできない。
「おしゃれするって、お金がかかるのね……」
 思わずぼやく。姉は、何を当たり前のことを、と言いたげな様子で、
「これも勉強よ、勉強。今まで女子、してこなかったんだからさ」
 と答えた。

 午後からバイトがある、という姉とは池袋駅で別れた。
 ちょうど停車していた東武東上線「小川町行き」の急行列車に飛び乗る。電車は間もなく発車した。
 昼をちょっと過ぎたあたりの車内は空いている。席に座ったのはいいものの、そのとたんに腹の虫が鳴った。サンドイッチ一つじゃ、さすがに足りない。
 本当は特大ハムサンドを二つ頼むつもりだったのに、姉に「女子はそんなに食べるものじゃないわよ!」とたしなめられた。ごちそうしてもらう手前、文句も言えなかった。
 ちょっとだけ遠慮がちに照るようになった秋の太陽が、下り電車の中に差し込んでくる。ぎらつく日差しに一瞬、グラウンドにいるような錯覚に陥った。
 ――野球部のみんなは今頃、ボールを追いかけているんだろうな。私のことなんか忘れて……。
 全身から化粧品売り場独特のにおいがする。化粧品のテスターを片っ端から試したせいだろう。いつも汗のにおいしかしなかったのに。まるで自分じゃないみたいに思えた。
 仕方がない。だってずっと汗まみれの生活だったんだもの。急に「女子」の自分を受け入れられなくて当然だ。少しずつ慣れていくしかない。
 そのためにもまずは化粧の練習をし、ふんわり袖のブラウスを着て街を歩こう。姉と一緒に。



「詩乃、詩乃! おーい、詩乃!」
 そそくさと帰ろうとするあいつを呼ぶ。部活を辞めてからというもの、詩乃はあっという間にいなくなる。避けられているという実感もある。おれ、何かしたか? って思うくらいに目も合わせてもらえない。不満ばかりが募る。今日こそはそのことを確かめたいと思った。
 肩をつかんで無理やり振り向かせる。
「あ、祐輔か」
 本当に、今しがた気付いたという様子で詩乃は答えた。何を考えているのか、このごろやけに上の空だ。人の話どころか、授業だってまともに聞いてないのが傍目からもよく分かる。
「何か、用?」
 迷惑している、という表情。やっぱり、何か悪いことをしただろうか。
「用、って言うかさ。……怒ってるのか?」
「え?」
「だってさ、おれが話しかけようとしてもすぐ消えるじゃん。部活辞めてから」
「あー……」
 そういうと詩乃は困った様子で、
「今は野球部の人とは話したくないの。祐輔だって野球部でしょう? それだけの理由よ」
 と言った。
「部活辞めたら、一緒に汗を流した仲間でも他人になっちまうってことかよ?」
「……そうよ」
 にわかには信じられなかった。詩乃はそんなに薄情なやつだっただろうか。
「そりゃあないんじゃねぇの? みんな、詩乃が辞めちまうって話聞いて戸惑ってるし、戻ってきてほしいって思ってる。練習にも身が入らないんだぜ?」
「みんな? うそでしょ、そんなの。むしろ、足手まといの私がいなくなってやりやすくなったんじゃないの?」
 はぁ? なんでそんなふうに言うんだよ……。みんなっていうのは確かに大げさだけど、詩乃がいなくなって練習に身が入らない、おれの気持ちも考えてくれよ……。
「野球やめてからのお前、なんだか変だよ」
 自分のことを棚に上げ、あたかも問題は詩乃にあるかのように言った。詩乃はムッとして「変って、どこが変なのよ?」と反論した。
「さっきだって何度も呼んだのに気づかないし、授業中もぼんやりしてる」
「放っておいて。私が何を考えていようと自由でしょう? 野球のことはすっぱり忘れたいの」
 今度はおれがムッとする番だった。
「野球を忘れたいがために、ほかの妄想をしてるってわけか?」
「……それのどこが悪いっていうのよ?」
 一度言い出したら聞かないたちなのはよく知っている。面倒な性格の持ち主なのだ。おれは大げさにため息をつく。
「辞めたいって思うほどの出来事があったのは知ってるし、理解もできる。だけど、それで辞めて、おれたちのことまで避けるっていうのはさぁ、納得いかないんだよ、みんな」
「……祐輔も含めて、みんなの顔を見るとつい、野球のことを思い出しちゃうから」
「そんなに忘れたいの、野球。一度のミスで、人生から消し去りたいほど嫌いになったってことなのかよ?」
「……そうよ」
 その言葉が真実なら、詩乃には心底がっかりだ。所詮、詩乃にとって野球ってのはその程度だった、ってことなのか? じゃあ、最初から紅一点だとわかったうえでもなお、野球部に入ったのは何でだったんだ?
 わからない。詩乃の考えてることがさっぱりわからない。
 おれは無意識のうちに舌打ちをしていた。悪い癖だが、むしゃくしゃするとついやってしまう。詩乃が一瞬、表情を曇らせたのが分かった。しかし、おれがイライラしていると気づいていながら、謝ったり弁解したりはしない。そういうやつだ。
「……ああ、そうか。分かったよ。もうこれ以上は聞かねぇ。つまんねぇこと話したな」
 おれもおれでそう言い放ち、部活に向かった。
 時々、起こる。本心ではないことを言っては互いに不快になり、冷戦になることが。果たして今回はどのくらい続くだろう。おれが謝ればすぐにでも解決するのかもしれないが、おれもおれで頑固なのだ。

 三年生が抜けた後に残ったのは、二年生七人と一年生四人。かろうじて頭数が揃っているような状態なので、夏の大会では経験の少ない一年生であっても試合に出なければならなかった。詩乃は責任を感じていたが、はじめから負けは決まっていたようなものだった。
 進学校だから、部活動の指導には熱心じゃないのも理由の一つ。一応、甲子園出場を目標にしているが誰も本気で目指していないのは明らか。学校だって期待しちゃいないのが実情である。監督だっていないから、部内のことはほとんど部長が決める。練習メニューもミーティングの内容も、だ。
 今日のミーティングの議題は、次の試合に備え「ファーストを誰に守らせるか?」だ。部内ではいい加減、詩乃の穴埋めを考えた方がいいという声が上がり始めている。もちろん二年生の中にファーストを守れる先輩はいるが、予備校通いで部活の参加率が低く、当てにできないところがあった。
 それは置いとくとして。みんな本当に詩乃が辞めることを認めちゃっていいのか? さっきは喧嘩別れしたけど、ここはおれが大人になって歩み寄ったっていい。戻ってくるよう説得するから時間をくれよ。
 心の中では大きなことが言える。けれど、二年生の前ではどうしても言えない。
 そのとき部長が動いた。
「まぁまぁ、諸君。春山クンの代わりを決めるのも結構だが、なにせ我が部はご覧の通り人数が少ない。できるなら経験者の彼女には戻ってきてほしいというのが僕の本音だ。むろん、君たちの目の保養とやる気向上のためにもね」
 一瞬ざわつくが、部長は話をやめない。
「春山クンが退部届を提出し、部活に顔を出さなくなって二週間あまり。夏の大会で手ひどくやられたとはいえ、君たちのやる気の低下は目に余るものがある。新部長に任命された身としては、この体たらくを見過ごすわけにはいかない。仮にも運動部として活動しているんだ、何かしらの目標を持って臨んでもらいたいものだね。このままでは、ただの落ちこぼれの集まりになってしまう。もっとも、それでもいいというのなら話は別。僕もそういうつもりで部をまとめていくほかない」
 僕の今の発言に異論がある者は? 部長の問いに答える人はいなかった。
 みんな薄々気づいていたこと。それを、部長がすべて代弁したのだ。誰も何も言い返せない。
 おれたちの代は、詩乃がいたことで妙なやる気を出していたのは事実。誰とでも話せるし、明るいし、頑張り屋だし。みんな、そんな詩乃のことを気に入っていた。詩乃の顔が見たくて毎日練習に精を出していた人もいるだろう。まぁ、おれも、その一人なんだけど。
 こういうとき、男ってのはつくづくしょうもないなぁと思わされる。女一人、いるかいないかでやる気を左右されてしまうんだから。しかも揃いも揃って。
 異議なしとわかり、部長は再び話し始める。
「ならば、みんなの意見を聞かせてもらおう。いま話したように、落ちこぼれの集団としてのうのうと野球もどきをしていく案が一つ。春山クンが抜けた事実を受け止め、真面目に自分たちの野球を続けていくのが二つ目。最後に、春山クンを呼び戻し、君たちに再びやる気を取り戻してもらうのが三つ目だ。ほかにも良案があれば受け付けよう」
「……春山には戻ってきてほしいっす」
 そう言ったのは野上路教(みちたか)だった。こいつも、詩乃のおかげでやる気を出していた人間の一人だ。路教の発言を機に、そうだそうだ、という声があちこちから上がる。
「意見を集約すると、みんな第三の案に賛成と言うことで間違いないかな?」
 部長の言葉に皆、こくんと頷く。
「では、本郷クン」
「えっ?!」
 いきなり声を掛けられドキッとする。
「君は確か、春山クンとは幼馴染だったね?」
「あ、はい……」
「僕らが彼女を必要としていることを、何とか君の口から伝えてもらえないだろうか」
「あー……。おれが言うとかえってこじれるような……」
 すでに冷戦中、とは言えなかった。部長は小さくため息を吐く。
「こじらせないように頭を使ってくれないかな。そうだな、たとえて言うならこうだ。目の前に強打者がいて、塁はすべて埋まっている。最大のピンチを迎えている状況を思い浮かべてほしい。そこでどんな球を投げたらバッターを三振させられるか……。それと同じだと思えばいい。なに、君ならできるよ」
 それはおれを信頼しているからか。それとも単に試しているだけなのか……。
「部長。なんで祐輔に……!」
 路教は不満そうだった。自分のほうが詩乃を口説けるとでも言いたげだ。部長はただ静かに、
「彼にはピッチャーとして、もう少し成長してもらいたいからね。何も考えないでマウンドに立たれてはこちらが困る」
 と言った。
 三年生が引退した後、永江部長とおれはバッテリーを組んでいる。なるほど、部長の考えが見えてきた。
「わかりました。おれ、詩乃と話してみます」
「それじゃあ頼んだよ」
「はい。できる限りやってみます」
 おれの言葉に部長は深くうなずいた。
「おい、祐輔。しくじったら承知しねぇぞ」
 路教が小声で、しかし力強く言った。
 こいつは絶対に詩乃のことが好きなんだ。気持ちを打ち明ける機会をいつでも見計らっているのだ。ああ、知ってるさ。だからこそ、絶対に譲れない。部長が作ってくれたこのチャンスを絶対にものにしてやる。

 話し合いが中心の部活だったせいか、いつもより少し早く終わった。
 秋の夕暮れは詩乃と帰ると楽しいが、一人で帰ると無性に寂しい。きょうは後者だ。おれは普段より速く自転車のペダルをこいだ。
 川越駅のすぐ近くにある踏切が見えてくる。マンションはもうすぐだ。
 東口から商店街に続く道は賑わっているが、一本奥の通りに入ると途端に住宅街になる。マンションも隣接しており、朝夕には狭い道が通勤通学の人や自転車で一杯になる。
 おれと詩乃が住むマンションは駅から徒歩十分ほどの場所にある。すぐ近くには小さいながらも公園があり、親切にも夕方になると子どもの帰宅を促す「夕焼け小焼け」の曲が細々と流れるようになっている。子どものころはそれが鳴るまで遊び続けたものだが、中学生以降はその音楽が鳴っているかどうかさえ気にも留めなくなっていた。
 だから、マンションの近くまで来てその曲が聞こえてきたとき、思わず自転車を停めてしまった。夏は確か、六時に鳴る。そうか。今でも「夕焼け小焼け」で子どもは家に帰るのか。
 折しも公園から子どもが出てくるのが見えた。グローブとボールを持った少年たち。四、五年前のおれの姿と重なった。よく見ればその中に女の子も混ざっている。こっちは詩乃の幼いころを思い出させた。
 急に詩乃に会いたくなった。でも未だどう話をしたものか、考えがまとまっていない。
 こんなことでいいのか、おれ。
 部長は詩乃の説得を野球に例えて言った。マウンド上で迎えたピンチは即座に対処しなければならないのと同様に、詩乃と話す内容も早急に練り上げなければならない、ということ。しかもこじらせず、しくじりもせずに、だ。
 おれにそんな技量があるだろうか。いや、今はそんなことを言っている時間もない。とにかく考えなければ。
 おれはマンションまでさっと自転車を漕ぎ、駐輪場に停めた。いつものように階段で四階まで上がろうとしたが、ちょうどエレベーターに乗り込む人影が見えた。瞬時に「楽、しちゃえよ」と脳からの指令が届く。おれの足は自然とエレベーターに向かっていた。
「乗ります!」
 閉まりかけたドアに体を滑り込ませ、おれは何とか乗り込むことに成功した。
「ありがとうございます」
 そう言ってちらりと先に乗っていた女性を見た。直後におれの体は固まった。
 ――あれっ、もしかして。……し、詩乃?
 女性はおれから離れるようにしてエレベーターの奥の隅に立っている。そうっと、背後に目だけ動かして確認する。やっぱり、詩乃だ……!
 目の周りは黒く縁取られ、マスカラをたっぷり塗ったまつ毛は重そうだ。いつもてかてかしている日焼けした肌も、今はファンデーションか何かで整えられている。そして何より目に留まったのがぷるぷるの唇。おれとしたことが、その唇に触れたいなどと思っている。
 うへー。詩乃って化粧するとこんなに変わるのか! しかもそのショートパンツは反則だろう? なんだって、そんなに生足を出してんだっ?!
 一人でドキドキしているとあっという間に四階についてしまった。おれは振り返ることもできずそのまま降りた。エレベーターのドアが閉まってようやく振り返ったが、当然ながらもう詩乃の姿は見えなくなっていた。
 数秒後、詩乃は一つ上の階の同じ場所に降り立っているはずだ。こんなに近くにいるのにおれは、きれいになった詩乃をまともに見ることができないのだ。
 そうか。詩乃は部活を辞めてからああいうことに興味を持ち出した。だから意地でも野球から離れようと……。
 一緒に野球がしたいからと、部に引き戻すことばかり考えていた。けれど、詩乃のあんな姿を、女になっていこうとする姿を見てしまったら、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
 しかし詩乃は、美しくなっていったい誰にその姿を見せようというのか? もしそれが特定の誰かのためだとしたら……?
 詩乃が急に遠くに行ってしまったように感じた。きれいだ、と感じた一方、あれは詩乃じゃない、と認めたくないおれがいた。
 おれが知ってる詩乃は、おれが好きな詩乃は、一緒に一つの球を投げたり追いかけたりしてる、そういうやつなんだ。
 詩乃。おまえ、本当にそんな格好がしたいの? おれのこと、好きなんじゃないの? だったらそんなおしゃれ、するなよ。おれは、なんだかいやだよ。
 そのとき、はっきりと分かった。おれはどんな詩乃が好きかって。これから詩乃とどう関わっていきたいかって。
 明日の朝一番で話をしよう。そう、胸に誓った。

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