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【連載】チェスの神様 第三章 #7 現実

「吉川さん、中へどうぞ」
 名前を呼ばれ、我に返る。
 急に体がこわばった。果たして正気でいられるのだろうか。私自身が今まさに人生の大きな節目にいるのだと強く実感する。結果次第では、大きな決断をすることになるかもしれない。
 緊張が伝わったのか、アキがそっと後ろから肩を包み込んだ。すっと、体の力が抜ける。私は意を決して診察室に足を踏み入れる。
 椅子に腰かけるとさっそく医師が一枚の紙をくれた。
「前回、採取させてもらった血液から染色体に異常があるかどうかを検査しました。結果は陰性でした」
「えっ……。つまり……?」
「染色体に異常は見られなかったということです。月経がないのは、原発性無月経によるもの、つまりは卵巣に異常があるためです。これは手術や薬による治療で改善するものではありません」
「治せないってことですか?」
「そうです。残念ながら、妊娠は不可能といっていいでしょう」
 しばし呆然とした。
 予想通りとはいえ、妊娠できない体なのだと告げられ、やはりショックだった。隣にいるアキが、ぎゅっと手を握ったことが余計にショックを大きくさせた。
 まだ高校生だから、結婚や子供のことをリアルに想像しているわけではない。ただ、ずっとずっと先、人生のパートナーになった人との間に子供を作ることができないということは、私の中では女としての役目を果たせないのと同義であり、つらいことだった。
 声も出なかった。ただただ涙が零れ落ちた。医師は続ける。
「通常、原発性無月経の場合は染色体異常、つまり女性ならターナー症候群の可能性が高いのですが、吉川さんはそうではありませんでした。また、低身長なのはターナーのせいではないかと疑ったのですが、どうやら別の原因がありそうです。思春期のころに何か強いストレスを感じる出来事がありましたか? ああ、そういえばご両親が離婚されているんでしたね?」
 医師の問いにしばらく答えられなかった。涙が止まるのを待って静かに口を開く。
「両親の離婚はそれよりずっと前でしたが……。小五の時、父がしばらく自宅で生活していたことがあるんです。二か月くらいだったと思います。それまでは二年に一度くらいの頻度だったのに、それが突然毎日顔を合わせるようになって。
 最初は、一緒にいられることに多少の嬉しさも感じていましたが、父のいる生活になじめず、かなりのストレスになっていました。そのうちに顔を合わせること自体が嫌になり、家に帰りたくなくて遅くまで友達の家にいたり、休みの日も部屋に引きこもったりしていました」
「実はあの時も、達彦は映璃ちゃんを引き取りたいといっていたんだよ」
 おばあちゃんがため息交じりに言った。
「当時はまだ再婚していなかったから、寂しかったんじゃないかねぇ。もちろん、おじいちゃんと二人で大反対したよ。でも達彦はなかなか聞き入れなくて、引き取れないならこっちが居座る! って言いだしたんだよ。あの子はどうしてああも頑固なんだろう。まったく、息子ながら理解できないよ」
 おそらく三十代になり、精神的にも経済的にも余裕ができたことでようやく「父」になる準備ができたからだろう。もちろん、一度養育を放棄しておいて都合のいいことを言うのだから祖父母が怒るのも当然だし、私だってそう思う。
 その時の父にはまだ、私が病気の時も落ち込んでいる時も面倒をみるという強い意志が感じられなかった。子供心に父の覚悟のなさを感じ取っていたからこそ、反発心も強かったんだと思う。
「強いストレスがホルモンバランスを乱すひとつの要因となります。低身長であることがご自身にとってコンプレックスになる場合はありますが、必ずしも異常な低さではありませんし、先ほども言いましたが、無月経の原因となる卵巣以外の問題点は見当たりませんでしたから、これまで同様の生活を送ってください。性交渉も問題ありません。ただし、吉川さんの体について説明し、理解を得てからのほうがいいでしょう」
 治療のしようがない。それが医師の下した診断だった。つまり私はこの体と一生付き合っていかなきゃならないってことだ。

 診察室を出てからは誰も口を開かなかった。私が二人の笑顔を奪ったのは間違いない。だからと言って、私が無理に笑顔をつくることもできなかった。
 ただ、アキはずっと私の右手を握っていた。私が手の力を緩めるとなおさら強く握った。
 病院の前でタクシーを待っているとき、ようやく祖母が口を開く。
「同じ女でもいろんな生き方がある。子供を産まない女として生きる人も、産んで手放す人も、いい年の息子に文句ばかり言ってる人もいる。男もまた同じ」
 祖母の言葉には、長い人生を重ねてきたからこその重みがあった。
「……行ってみようか。このまま」
 突然の提案に、私もアキもぽかんとする。
「行くって、どこへ?」
「お寺」
 そういうなり、おばあちゃんは病院についたタクシーに乗り込み、寺院の名を告げた。


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