空1

【連載】チェスの神様 第三章 #1 父

#1 父


 アキの私への想いは、私のゆがんだ性格をも治してしまいそうなほどにまっすぐ。ちょっとくすぐったくて、恥ずかしくて、うれしくて。一秒ごとに、私の気持ちもどんどん「アキ色」に染まっていく。悠に染められた色を塗りつぶすかのように。


 二年間も一緒に部活動を通して接してきたのに、今までアキの何を見てきたのだろうと思わされるほどに新しい発見がある。恋の魔法のせいに違いないけれど、ぼさぼさの髪の毛や眠そうな顔、剃り残しのヒゲでさえ、今では許せてしまう。自分でもびっくりしている。
 たぶん、チェスをしているときの鋭いまなざしと真剣な表情を知っているからだろう。駒を動かすときの丁寧な所作、細くて長い指も美しい。そのギャップが私に恋をさせているに違いなかった。


 雨は上がっていた。部活を終え、私たちはようやく訪れた二人だけの時間に酔いしれていた。自転車を転がしながらゆっくりと歩く。こんなに楽しい帰路に就いたのはいつぶりだろう。会話の最中、互いの顔を見ては微笑み、信号で立ち止まってはまた見つめ合う。常に笑顔が絶えなかった。
 長い道のりもアキといたらあっという間。気づけば自宅についてしまった。
「ありがとう。反対方向なのに、家まで送ってくれて」
「少しでも長くエリーといたいから」
 自転車を家の前に止め、私たちは抱擁を交わした。時間にしてわずかだったはずだが、時が止まってしまったかのような錯覚に陥った。家の前を通り過ぎる人の話し声が聞こえ、ようやく我にかえる。
「離れたくないけど、そろそろ」
「また明日も会えるから」
「そうだね」
 見つめあう。いつもはチェスの駒を動かす長い指が、今は私の指に絡んでいる。何度も握り返す。まるでキスをしているみたいに気持ちが高ぶってくる。けれどもアキが唐突に絡んだ指をほどいた。その唇は固く結ばれている。
「どうしたの?」
「いや……。ほら、家に入って。中に入るのを見届けるところまでが僕の仕事」
「もう、アキったら。それじゃ、また明日」
「また明日」
 自転車を片付け、私は高揚したまま玄関のドアを開けた。

 ただいま、と言いかけて私は眉をひそめた。
 おじいちゃんが吸っているものとは違うたばこのにおいがする。慌てて靴を脱ぎ、居間に駆け込む。
「なんで帰ってきたのよ……!」
 煙草をふかし、我が物顔で居間に座る男の姿をみてとっさに持っていたバッグを投げつけた。男は避けるふうでもなく、教科書の入った固いそれを背中で受け止め「いってぇ……」とつぶやいた。
 幸福な気分が台無し。いつもそう。連絡もなしにふらりとやってくる。今度はいったい何をしに来たというのだろうか。
「映璃ちゃん、落ち着いて」
「なんで……。なんでお父さんがここに……!」
 おばあちゃんに詰め寄る。息が苦しい。頭に血が上っているのが自分でもわかる。私の問いに、男自身が答える。
「明日からゴールデンウィークだろう? たまの長い休みくらい、孫の顔でも見せとこうと思ってな」
「はぁ……? 孫……?」
 訳が分からず戸惑っていると、目の端に小さく動くものが見えた。
 三歳くらいの女の子。垂れた目が父によく似ている。が、まっすぐ伸びたつやつやの黒髪は、くせ毛の父のものではないとすぐにわかる。私が怒りを爆発させる姿を見ていたせいか、おびえているふうだった。
「孫ってその子のこと? ……別の女の、子供ってこと?」
「ユリって言うんだ。えーと、映璃の妹になるのかな? 二、三日はいるつもりだから、仲良くしてやってくれ」
「ばかなこと言わないで! なんで私が子守をしなくちゃならないのよ!」
「映璃ちゃん、こっちへおいで……」
 興奮する私を、おばあちゃんが台所から手招きした。向かい合うとおばあちゃんは私の手を取った。
「今度ばかりはおばあちゃんも呆れてる。だけど、小さい子の手前、出て行けとも言えなくてねぇ」
「なら、私が言う。なにがなんでも追い出してやるわ」
「そうできればいいんだけど。おじいちゃんが言ってもあの態度だから」
 今回はいつもと違うということか。
 この前帰ってきたのが二年前。ちょうど、高校に入学したころで、入学祝と称していくらかお金を包んで持ってきたのだけど、その時は一時間ほどで出て行ったのだった。
 養育権は祖父母にあるから、時々しか顔を合わせることのない男のことは、実のところ親戚のおじさん以下の認識だ。それでも「父」と呼んでいるのは、ほかに呼びようがないからで、一種のあだ名みたいなものである。
「おい、映璃。妹ができたんだ、遊んでやってくれよ」
 居間で父がのんきなことを言っている。あんたの子供でしょう? それはあんたの役目でしょう? 腹の底から怒りがこみあげてくる。
「達彦(たつひこ)。おもちゃは持ってきてないの? わたしが遊んでやるから」
 おばちゃんが、やれやれとため息を吐きながら居間に足を向ける。
「なんで相手するの? 勝手にやってきたのはあっちでしょ?」
 おばあちゃんに抗議する。おばあちゃんは首を横に振った。
「子供に罪はないんだよ。それに、あの子にとってわたしは『川越のおばあちゃん』なんだから」
 そういって子供の相手を始めた。
 私は感情を整理しきれず、訳が分からなくなって家を飛び出した。勝手に涙があふれてくる。うつむいたまま駆け出そうとした時、誰かにぶつかった。
「……アキ? 帰ったんじゃなかったの?」
 彼は頭をポリポリと掻いた。
「帰るつもりだったんだけど、家の中からエリーの怒鳴り声が聞こえてきたから何事かと思って、帰るに帰れなかった。まさか、飛び出してくるとは思ってなかったけど、ここにいてよかった」
「アキ……」
 しがみついてその腰に顔をうずめる。アキはしゃがみこんで私の背中に腕を回し抱きしめてくれた。
「大丈夫。なにがあったかわからないけど、僕がいてあげるから」
「うん……」
 ひとしきり泣いてから、すぐ近くの公園のベンチに座り、ことの経緯を話した。
 私が一歳半の時に両親が離婚したこと。どちらも育てる気がなかったから父方の祖父母の養子として育てられたこと。その父が今日になって突然、「妹」を連れて戻ってきたこと……。
 アキはただ静かに話を聞いてくれた。
「一度話し合ってみたらどうかな? 一人じゃ無理って言うなら、ぼくが一緒にいてあげてもいいし」
 私のことを一番に想ってくれるアキならきっとそういうと思った。だからこそ、家の問題にはあまりかかわらせたくない、という思いもあった。やっぱりこれは私の問題なのだ。
「……大丈夫。一人で何とかする」
「本当に? さっきあんなに泣いていたのに?」
「……アキに話したら少し落ち着いた。それに、万が一うまく話せなかったとしても、お父さんは二、三日したら出ていくはずだから。そうしたら元の生活に戻るよ」
「そう? 無理しないでよ?」
「うん。ありがとう」
 私はできるだけ笑おうと努めた。目にたまっていた涙が笑った拍子に零れ落ちる。アキはそれをやさしく拭ってくれた。
「僕はいつでもエリーの助けになる。いつでも」
「ありがとう」
「大好きだよ」
「うん。私も」
「それじゃあ……。そろそろ帰るね」
「うん。明日、図書館に、十時に待ち合わせで」
「わかった。それじゃ」
「バイバイ……」
 アキは名残惜しそうに私の髪をひと撫でし、今度こそ自転車に乗って帰っていった。


下から続きが読めます ↓ (12/28投稿)


いつも最後まで読んでくださって感謝です💖私の気づきや考え方に共感したという方は他の方へどんどんシェア&拡散してください💕たくさんの方に読んでもらうのが何よりのサポートです🥰スキ&コメント&フォローもぜひ💖内気な性格ですが、あなたの突撃は大歓迎😆よろしくお願いします💖