喜多院

【連載】チェスの神様 第一章 #5 家出

#5 家出

「行ってきまーす」
「しっ! 声かけちゃだめですって」
「あ、ごめん」
 起きるかと思ったが、大丈夫、身じろぎ一つしない。平日にたまった疲労のせいか、兄貴が起きる様子はない。
「何も話してないですよね?」
 玄関を出てからようやく普通の声量で話す。
「うん、大丈夫。こういうの、結構得意なのよ」
「なら、OK」
 土曜日の早朝。僕たちの計画はスタートした。
 両親には、二人で学校に行くと言ってある。同じ学校の先生と生徒だからつける嘘だ。
「それで、どこまで行こうか?」
 少し歩いてからいけこまが言った。彼女がそういうのを待っていた。
「川越の街、歩いたことある?」
「実は、ないんだよね。城南高校に赴任してから川越のことを知って、それからは学校とアパートとの往復だったから」
「まじめだねぇ」
「そうかなぁ?」
「じゃあ、案内しますよ。この街を」
「本当? 一回、見てみたかったんだ」
「よかった、決まり。でも、辛くなったらいつでも言ってください」
「うん、ありがとうね。あ、もしかして、あの電車に乗れる?」
「もちろん」
「わーい、楽しみにしてたんだぁ!」
 いけこまは子供みたいにはしゃいだ。

 最寄りの西川越駅まで歩き、電車で一駅。この街の中心地に降り立つ。
 土曜日とはいえ、早朝の川越駅は人が多い。皆、無表情でどこかに向かおうとしている。僕たちだけが、なんだか浮ついた気持ちでここにいるような気がした。
「本当は歩いたほうがいろいろ案内できるんですけど、今日はバスに乗りましょう。観光名所まで一気に行けますよ」
「気を遣ってくれてありがとう。じゃあお言葉に甘えてそうさせてもらうわ」
 市街地はバス網が充実している。メインの観光名所は、巡回バスに乗れば一通り見て回れるようになっている。初めて観光する人にはもってこいだ。
 バスはほどなくしてやってきた。
「へぇ、このバス、可愛い」
「この、クラシカルなボンネットバスが川越らしいでしょ」
 僕はいけこまと並んで腰かけた。動き出すと、車内アナウンスが川越の名所について丁寧に説明を始めた。しかし、いけこまはそれを聞かないで僕に話しかける。
「彰博君が一番おすすめしたい場所ってどこなの?」
「そりゃあ喜多院(きたいん)ですよ」
「へぇ」
「もちろん、そこに案内するつもり」
「楽しみだわ」
「じゃあ、着くまでに少しうんちく話」
 僕はこれでも歴史は得意だ。
「川越が江戸時代にどんな位置づけにあったかっていうと、徳川家康が川越を重要な拠点とみなしていて、家臣の酒井重忠を置いたんです。三代将軍の家光誕生の間っていうのも、実は喜多院にあるんですよ。川越が大火に見舞われた時、喜多院のほとんどの建物が消失してしまったんですが、それを知った家光が、江戸城の別殿を移築させたほど」
「そうなんだ! すごいんだね、川越って。家光なんて、歴史の授業で習ったことくらいしか知らなかったよ」
「でしょう? それだけじゃないですよ。その、家光誕生の間は見ることができるんです」
「え?! 重要文化財なんじゃ……?」
「拝観料を払えば、だれでも見られます。ほかにも、春日局の化粧の間や五百羅漢(ごひゃくらかん)っていう、お地蔵様みたいな石像も面白いから見てみるといいですよ。いろんな表情があって結構楽しめます」
「京都にある、三十三間堂の観音様みたいな?」
「そうそう、そんなイメージ」
「へぇ。行ってみたいなぁ」
「行きましょ、行きましょ」

 知識を披露できて大満足の僕は、その高揚した気分のままいけこまを喜多院の各名所に案内した。
 久しぶりに足を運んだ境内の荘厳な空気に身が引き締まったり、五百羅漢像のユーモラスな表情に思わず笑ったり。
 なんだかんだで、いけこまが身重だってことをつかの間忘れるくらいには楽しい時間を過ごした。いけこま自身もそうだったみたいだ。
「ねぇ、ほかにも回ろうよ。すっごく楽しくなってきた」
「ほんと? それじゃあね……」
 いけこまがワクワクしている様子だったから、僕もうれしくなって「次は時の鐘だな」なんて考えていた。そんな時、いけこまのスマホが鳴った。彼女は、はっとした表情で慌てて電話に出る。僕はすぐ、電話の主が誰だかわかった。観光案内の続きは後日になりそうだ。
「もしもし、みっちゃん……。ごめん、いま喜多院にいる……。ううん、彰博君と一緒」
 ――彰博と一緒?!
 という声が電話越しに聞こえた。かなり怒っているようだ。まぁ、それもこれも全部織り込み済みで計画している。今度ばかりはただでは済まないかもしれないと思うと体がこわばった。なんせ、身重の奥さんを弟が連れ出したんだから。
 でも、いけこまはちょっと考え込んでから毅然とした態度でこう答える。
「すぐには帰らない。あたし、もう少しこの街のことを知りたいの。彰博君、とっても詳しいのよ、川越のこと。知ってた? 話も上手だし、一緒にいてすごく楽しいの。そう、今のみっちゃんといるよりずっと。だから、もう少しだけ二人でいさせて」
 素直にうれしかった。いけこまが言ったから、というのもあるかもしれないけど、そんな風に言われたのは初めてだった。
 ――何言ってんだよ! 彰博と変わってくれ。直接話がしたい。
 電話の向こうで激高した兄貴の声がはっきりと聞こえた。
「変わろうか?」
「ううん、いい。あたしが何とかする」
 たまりかねてそう言ったが、いけこまは拒んだ。二人の関係を修復するチャンスは今しかない、と彼女も必死なのかもしれない。
 確かに、きっかけは僕が作った。けど、これはやっぱり二人の問題なのだ。最後は僕の出る幕じゃない。
「みっちゃん、もし思うところがあるなら迎えに来て。あたし、ここで待ってる。喜多院で待ってるから」
 兄の返事も待たずにいけこまは電話を切った。
「いけこま、やるね」
「……こんな風に言ったの、初めて。なんだか怖い」
「大丈夫。口は悪いけど、いいやつだから。いけこまだって、そう思ったから結婚したんでしょ?」
「そうだね。うん、きっと仲直りできるよね。……みっちゃんが来るまで、一緒にいてくれる?」
「もちろん。あっ、そこの和菓子屋さんで和菓子買って食べませんか? 兄貴が来るまで三十分くらい待つだろうから」
「……そうね」
 和菓子を買った僕らは、境内にあるベンチに座った。
「いただきます」
 小さな和菓子を一つだけ、静かに頬張るいけこまは今、何を思っているんだろう。
 わからないけど、僕は僕なりに考える。
 僕は大人ってのは、自由なものだと思ってた。働いたお金で好きなものが買えるし、宿題もしなくていい。そんな大人にだったらなってもいいなと思ってた。
 でも。
 現実はどうも違うってことが見えてきた気がする。
 子供には子供なりの厳しさがあるように、大人にも大人の厳しさがある。
 決まり事。約束。責任。信頼。誰かとつながって生きていくためには、そのすべてを守って生きていかなくちゃいけない。どれか一つ欠けてもダメなんだ。
 多分、兄貴は今、それに気づいて必死にいけこまのもとへ向かっている。
 父親になったことで負う責任。妻への配慮。勤め人としての立場。自分自身へのいたわり……。大人の道は険しいらしい。
 その大人への道へ、僕はもうすぐ踏み出さなければならない時期に来ている。
 高三まではのうのうとやってこれた。だけどもうすぐ十八になる。法律上は大人だ。自分の力で生きていく力を身につけなければならない。


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