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【連載】チェスの神様 第二章 #6 病院

#6 病院

 市街地にある総合病院へは歩いて十五分ほど。通勤通学時間帯で混雑していたせいもあるが、その間僕らは一言も口にしなかった。
 何度も、さっきは言いすぎてしまったかもしれないと心配になった。そのたびに昨日の兄貴の言葉――しないで後悔するくらいなら、して後悔しろ――がよみがえり、これでいいんだと言い聞かせた。
 院内に入ると広い受付があり、「婦人科」を受診する旨を伝えて手続きする。朝早くにもかかわらず、たくさんの人が椅子に腰かけていた。
 婦人科の待合所にはお腹の大きい人、具合の悪そうな顔で点滴しながら歩いている人の姿があった。いずれも二十~三十代の女性ばかり。そんな中、僕らは確かに浮いていた。
 チラチラ見られている感じもした。だけどそれ以上に干渉されることはなかったし、当人たちだって何かしら体の悪いところを見てもらうためにここにいるのだから、立場上は同じはずだ。なら、こっちは呼ばれるまで座って待っていればいい。
 とはいえ、壁を眺めているのには五分で飽きてしまった。エリーも同じらしく、
「予約もしないで来ちゃった上に、初診だからかなり待たされると思うけど、ただ待ってるのって暇だよね。どうする?」
 時計をちらりと見てそう言った。
「どうって言われても……。あぁ、僕、いいの持ってる」
 本当は服に合わせて変えてきたほうがよかったのかもしれないが、慌てていたので通学用に使っているリュックをひっつかんできてしまったのだった。
「ほら、これ」
「……なんでチェスセット持ち歩いてるの?」
 当然と言えば当然の反応だが、あきれているような、笑っているような、なんとも中途半端な表情をされた。
「そりゃあ、どこでもできるように」
「一人で?」
「まぁ、そうだけど」
「やっぱ、アキって変わってるね」
「で、やるの? やらないの?」
「やる、やる。暇つぶしには最適」
 エリーも開き直ることを覚えたようだ。長椅子の上にチェスボードを出した僕らは明らかに場違いな連中だった。でも、ぺちゃくちゃとおしゃべりに興じているよりよほどましなはずだ。
「どっち?」
「じゃあ、右手……。あー、僕はいつも黒だなぁ」
「そうね。じゃあ始めるね」
 僕とエリーが対戦するとき、たいていエリーが白駒、先手である。
 チェスは横軸がaからh、縦軸が白のほうから1~8と数え、それぞれが交差したマスをa1、a2と呼ぶ。
 まずエリーが、白ポーンをe4へ、僕が黒ポーンをe5へ、次に白ポーンをd4、そして黒ポーンで敵ポーンを取ってd4へ……。と順に動かしていく。
 次に白はクイーンを使ってさっきの仕返しとばかりにd4へ動かした。僕は黒のナイトをc6へ動かす。
「うーん……」
 ちょっと迷ってから、エリーはクイーンをe3に動かした。
 センター・ゲーム……。
 古い定跡の一つであるそれを仕掛けてきているようだ。
 やはりチェスはキャスリング(入城。条件が整った時、ルークとキングを入れ替えることができるルール)がゲームを面白くしてくれる。
 思った通り、そこから白熱したゲームが展開された。僕らは特別な言葉を交わすことなく駒を動かし続けた。

   *

「吉川さん、どうぞ」
 一時間ほど経ったころだろうか。ちょうど白が辛勝し、片付け終えたところでエリーの姓が呼ばれた。
「ここで待ってる」
 僕が言うと、
「一緒に来て。中で待ってて」
 エリーは僕の手を引っ張って診察室に連れ込んだ。
 中に入ると、男性の医師と女性看護師がいた。婦人科だが、女性の身体を診るのは男なのか。
「吉川さんですね。問診票、拝見しました。詳しいことを知りたいので、いくつか質問させてもらえますか?」
「はい」
「身長が止まったのはいつごろ?」
「小三ぐらいだったと思います」
「生理は一度も来たことがない?」
「はい……」
 医師に促されるまま、エリーは自分の身に起きていることを事細かに話した。話を聞きながら、医師はカルテに記入していく。
「分かりました。では、精密検査をしましょう。奥の部屋へ移動してください。彼女だけね」
 歩きかけた僕を医師が制した。身体検査のようなことをするのかもしれない。僕は再び椅子に腰掛け、検査が済むのを待つ。
「お兄さんですか?」
 室内を見回していると、看護師の方から声をかけてきた。
「いいえ」
「恋人?」
「友達です」
「へえ、友達……」
「いけませんか、友達でこんなところに来ちゃ」
「ううん。感心してるのよ、むしろ。今時の高校生は、彼氏さんでも彼女の病気に向き合えない子が多いから」
 奥の部屋に移った医師が看護師を呼んだ。看護師は話すのをやめて奥に引っ込んだ。ドアが閉まってしまうと会話は全く聞き取れなかったが、二人がああだこうだと話しているようすはわかる。その雰囲気から察するに、あまりいい話ではなさそうだ。
 十分ほどして、医師とエリーが戻ってきた。彼女の顔色は悪かった。
「じゃあね、吉川さん。血液検査の結果がでるまで一週間ほどかかりますから、来週また来てください。おそらくは、ターナー症候群だと思いますが」
「ターナー症候群」
「本当に、今まで一度も言われたことがありませんか? 普通、遅くとも中学生になるころには親御さんが異常に気付くものですが」
「……親は離婚しているので」
「あぁ……」
 医者は妙に納得した様子だった。
「こういうことは一度、育ての親御さんにもきちんと話さないと。恋人に相談したい気持ちもわかりますがね」
「……ありがとうございました。また来週、お目にかかります」
 小さな声でそういうと、エリーは診察室を後にした。
 待合所へ戻った僕らは、空いている椅子に並んで腰掛けた。エリーは診察室を出てからずっと僕の手を握っていた。
 僕らの前を二十代前半のカップルが通り過ぎる。
「よかった、順調に育ってるって。子供の名前、考えなきゃ」
 僕らは二人を目で追った。
「私、自分の家族を持てるのかな……」
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
 僕にはそう言ってやることしか出来ない。
「結果が出たら、また一緒に来てくれる?」
「もちろん。僕も知りたいから」
「ありがとう」
 エリーが僕の手を強く握る。僕も握り返した。
「ねぇ。この後、私と川越めぐりしない?」
「川越めぐり?」
「気晴らししたいから。学校行くなんて、言わないよね?」
 訴えるように見つめられたら断れない。
「いいよ、今日はとことん付き合うよ」
 いけこまには、用事が済んだら学校に来てと言われたけど、ごめん。今日はいけそうにない。それよりも大事なことがある。
「途中でおなかがすいたらどうする? 僕、あんまりお金持ってないんだ」
「菓子屋横丁で買えばいいよ。アキはお菓子好き?」
「好きだけど、お腹いっぱいになれるかなぁ?」
「あの麩菓子買えば、絶対お腹いっぱいになれるって」
「あぁ、あれね。確かにそうだ」
 「あれ」というのは、菓子屋横丁名物、日本一長い麩菓子のことだ。その長さは一メートルほど。持っているだけで観光客だなと分かってしまう、存在感である。
 支払いを済ませると、エリーの足取りは行く前よりうんと軽く見えた。表情もいい。
「菓子屋横丁に行く前に、時の鐘に行こうよ」
 僕は提案した。
「時の鐘? いいけど、行ってどうするの?」
 それは川越の象徴。観光するなら絶対に外せない名所だが、エリーのいうように、市民にとっては改めて見るほどのものではないかもしれない。
「正確にはその奥にある薬師神社に行きたいんだ。……病気に効くって言われてるからどうかなって」
「アキ……。ありがとう」
 背が高くて目立つときの鐘の奥にひっそりとたたずむ神社だが、五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒のご利益があるという。僕自身、知識としては知っているけど実際に行ってみたことはなかった。


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