神社2

【連載】チェスの神様 第三章 #8 お寺

 制服姿の私たちと祖母を乗せ、タクシーは市内の小道を走っていく。
「お寺に行ってどうするの?」
 アキもいるし、私はまずそこへ行く目的を聞いておかなければ、と思った。祖母はいつの間にやらにこにこしている。
「おばあちゃんのお友達がいるの。ふふ、男の人」
「お寺の住職さん?」
「そう。まぁ、本当に小さなお寺さんだけどね」
「おばあちゃんがその人に会いたいの?」
「映璃ちゃんたちを会わせたいの」
 祖母は「たち」を強調した。いったいどんな人で、どんなことを言われるのだろう。

 ほどなくしてタクシーは停まった。祖母はお金を払うと、一番に降りてさっさと歩いて行った。その足取りは軽い。足が悪いのがつかの間治ってしまったみたいに。そのあとを私たちはゆっくりついていく。
 昔ながらのお屋敷を流用したらしい、小ぢんまりとしたお寺だった。玄関には「月光寺」と書いてある。呼び鈴はないらしく、祖母は直接、玄関のドアを数回に分けて叩いた。
 春の夕日が庭の木々をやんわりと照らす。その美しいこと。思わず見とれる。
 すると中から音がしてドアが開いた。
「錬さん、お久しぶり。突然の訪問、失礼します」
「やぁ、ハルさん。お久しぶりです。今日はお連れさんがいらっしゃるんですね」
 出てきたのは白髪のおじいちゃん。祖母より年上に見えるから八十くらいだろうか。それでも背中は丸まっていないし、受け答えもしっかりしている。
「お元気でしたか? 足がお悪くなったと聞いていたから、訪ねて来てくれるなんて嬉しいですよ。二年ぶりかな?」
「あら、そんなに経ったかしら? 本当はもっと頻繁に会いに来たいのだけど、どうしても出かけるのが億劫で。でも今日は孫に付き合ってタクシーで出てきたから、ちょっと足を延ばしちゃった」
 二人は微笑みあった。
「実はね、錬さん。この二人に説法を聞かせてやってほしいと思って。悩める高校生に、人生のイロハをね」
「お二人に?」
「無心になると、いろいろなことが分かるって、いつだったかおっしゃったでしょう?」
 それを聞いて「そういうことですか」と彼はうなずいた。
「わかりました。ハルさんの顔を立てて特別講義をするといたしましょう」
「お願いしますね」
 そういうなり、祖母は私たちを「錬さん」の前に押しやった。
「わたしは後ろで見守っているからね。しっかり、お話をお聞きなさいな」
「おばあちゃんってば……」
「ハルさんらしい。まぁ、こんなところで立ち話もなんですから、どうぞ上がってください」
 白髪のおじいちゃんはそういって促した。
 玄関から長い廊下が伸びている。どうやら奥の部屋へ案内してくれるようだ。私たちは歩きながら簡単な自己紹介をした。
「ぼくのことは月岡のおじいちゃん、とでも呼んでもらいましょうかね」
「じゃあ私たち、月岡さんって呼ばせてもらいます」
「ぼくが言っても若い人はみんなそう呼びますよ。おじいちゃんでいいんですがねぇ」
 室内はひんやりしていた。いや、空気が緊張している、と表現したほうがいいかもしれない。線香の匂いが鼻をくすぐる。身近ではないのに、なぜか落ち着いてしまう香りだ。
「そこの座布団へどうぞ。今、お茶を入れてまいりますので」
 月岡さんは指示を出して、いったん見えなくなった。あたりはしんと静まり、物音一つしない。
「……なんか、喋るのもためらっちゃうね」
「そうだね……」
 私もアキも緊張していた。少しでも落ち着くために話題を振る。
「ところでおばあちゃん。月岡さんとはどういう関係なの?」
 祖母は本当に、少し離れたところから私たちを見守っている。
「ふふ。当ててごらん」
 その嬉しそうな顔を見るにつけ、これは単なる友人ではないと直感する。おばあちゃんにもそういう時期があったんだ。そして今でもこんなふうに、会えば若い子のようにときめいた顔になるんだ。
「お待たせしました」
 月岡さんがそろりそろりとお茶を運んできた。手元が震え、わずかな段差を乗り越えるのもやっとの様子だ。
「あっ、手伝います」
 アキがさっと手を差し伸べた。
「ありがとう。助かりました。八十過ぎると、足元がおぼつかなくなりますねぇ」
 どうぞ、座って。
 立ったままの私たちに改めてそう促す。月岡さんは仏像を背に座る。私たちは彼と向き合うように並んで座った。

「……説法といっても、そんなに肩ひじを張らなくていいんですよ。もっと、楽にしてください」
 そう言われても、楽にする方法が分からない。困っていると、「じゃあ、まずは目を閉じましょうか」と彼は言う。
「数回、深呼吸をしましょう」
 その通りにする。少しずつ体のこわばりが取れていくのが分かる。
 月岡さんはそこから話し始める。
「お二人が恋仲にある、という話は先ほどお名前を伺った際に聞きました。素敵ですね、恋愛というものは。きっと、すがすがしい空の下や、あたたかな光の中にいるような感覚でしょう。どこで何をしていても、相手のことを思い出しては胸が高鳴る。それが恋です。
 しかし、それは同時に相手を束縛したいという欲求が表れるときでもあります。愛してほしい、そばにいてほしい、話を聞いてほしい……。そう。ぼくたちは誰かに自分を受け入れてほしいと常に望んでいるのです。与えもしないでただ欲する。あるいは、与えたら与えた以上のことを返してほしいと望んでいる。
 人は欲求の塊、といっても過言ではありません。睡眠欲、食欲、性欲。これらは生きるために必要な欲であり、なくすことはできない。けれど、欲のままに生きたらどうなるでしょう。そう、最終的に身を亡ぼすことになります。ぼくはそういう経験をしているからよくわかります」
「どういう、経験をされたのですか?」
 気になって質問すると、月岡さんは視線を落とし、うつむいた。
「結婚を約束していた人が肺を病み、余命いくばくかの状態になりました。東京の大きな病院に移ればもっといい治療が受けられると聞き、転院させようと親たちが話す中、彼女はぼくと一緒にいることを選びました。自分の命がどのくらい続くか、わかっていたのかもしれません。それでいい気になって、ぼくもそうしたいと彼女の親を説得しました。けれども当然受け入れてもらえず、二人でしばし逃避行をしたのです。今でもその時のことはありありと思い出せます。彼女はひどい咳をしていましたけれども、健康な人と同じように愛を確かめ合いもしました。
 数日が経ったころ、彼女は呼吸困難に陥り病院に担ぎ込まれました。その後どうなったのかはもうお分かりになるでしょう。ぼくが無理をさせたから、彼女は命を縮めたのです。彼女の両親は激怒し、ぼくを葬儀に参列させてはくれませんでした。
 ぼくはその地を離れ、放浪の末にたどり着いたのが川越でした。心の故郷に出会ったような心地がしましたね。ぼくはここで第二の人生を歩もうと和菓子屋の門をたたき、修行に励みました。
 しかし心の傷を癒しきることがどうしてもできなかった。その時、店の常連さんから出家の話をいただいたのです。ぼくは出家することを決め、自分の罪と向き合いながら今日まで生きてきたのです」
 好きな人とずっと一緒にいたい。その当たり前の感情に支配され、最愛の人を亡くした彼の話には重みがあった。
 ちらりとアキのほうを見ると、彼は次の一手を考える時のようにじっと一点を見つめている。
「なぜつらい過去を私たちに話してくださったのですか?」
 私は話の続きを促した。月岡さんは変わらぬ調子で語りだす。
「仏門に入り、長い月日が経つうちに悟ったからです。過去にとらわれて生きていくべきではないのだと。
 それは、罪をなかったことにする、という意味ではありません。罪を犯したあの時のぼくだけを消すことができたとして、じゃあここにいるぼくは本当にぼくだと言えるのでしょうか。違いますよね。全部含めてぼくなのです。
 ぼくは自分の存在を否定することができなかったのです。必死に生にしがみついたのです。これはある意味、彼女の分まで生きようという贖罪から来ているのかもしれませんが、とにかく生きたいと願った。そしてお釈迦様の前ですべてお話ししました。そして座禅を組み、瞑想しました。
 すると、お釈迦様はおっしゃったのです。ありのままでいいと。煩悩に苦しみ、悩み、抗いきれなくて傷ついてもいい。それに気づき、それでも生きていくのが真の人間であると。
 お釈迦様に許していただき、それまで抱えていた重荷を誰かと分かち合ってもいいのだと気づきました。しかし、そのころには私も老齢になり、友人の幾人かは天に召されていました。
 それが、ちょうど十年ほど前。そう。そんな時、ハルさんがここへやってきたのです。
 ハルさんが結婚して、勤めていた和菓子屋をやめてからはずっと会っていませんでした。もう会うこともないとさえ思っていましたのに。
 聞けば、ハルさんはかつて私を想ってくれていたけれど、伝えられずに結婚したと。でもぼくがここにいると人づてに聞き、意を決して訪ねてきたのだといいました。
 ハルさんにだけは胸の内を話しました。お釈迦様にお許しをいただいたことが影響していたのでしょう。それからハルさんとはよき友になりました」
「わたしにも若い頃があったという、昔話」
 祖母が恥ずかしそうに付け加えた。
 少しの間、沈黙の時が流れる。目を開き正面を見ると、仏像が薄目を開けている。まるで私の心の中を見透かそうとしているみたいに見えた。
「聞いてもよろしいでしょうか」
 熟考していたであろうアキが口を開く。
「人は傷つかなければ生きていけないのでしょうか。それをすべて受け入れるのが人生なのでしょうか」
「おっしゃる通りです。けれども、何も恐れることはありません。傷は必ず癒える。そして傷の数だけ強くなれる。
 むしろ、傷つかない人生があるとしたら無価値以外の何物でもないのですよ。傷の場所もその数も、人それぞれ。だから個性があり、皆価値があるのです」
 煩悩に苦しみながらもそれが「人間らしさ」だと受け入れて生きていく……。もしそうならば、悟りの境地に達するまで、人はずっと苦しまなければ生きていけないのだろうか……。
「はい、ここでもう一度深呼吸。お二人とも、呼吸が浅くなっていますよ」
 月岡さんは私たちを穏やかな表情で見守っている。幾度か深呼吸したのを確かめてから続けて語る。
「お二人が僕の話を真剣に聞き、悩み考えているのが分かります。でもね、本当は何も考えなくていいんですよ」
「えっ?」
 私たちは同時に声を出した。月岡さんは微笑む。
「悩むのでも考えるのでもなく、感じるです。自分の内なる声を。そして、その声の通りに行動すればいいだけなんです」
「本当に、何も考えなくていいんですか? ……将来のこととか、どう生きたらいいかとか」
 私が問うと、月岡さんはまっすぐに私を見据えた。
「では尋ねます。あなたは今、何をしていますか?」
「えっと……。月岡さんの話を聞いています」
「誰と一緒に?」
「彼と……アキと一緒に」
「なら、それで十分じゃありませんか。大好きな人と同じ時間を共有しているのでしょう? まだ来ていない先のことや、過ぎ去ったことにいつまでもこだわっていてどうなるというのですか?」
「あっ……」
「ぼくが恋人のために罪滅ぼしをした時間というのは、実のところぼく自身にとっては空白の時間だったのです。ぼくはぼくのために時間を使えなかった。もうこの世にいない人のために費やしてしまった。ぼくは生きているというのに。
 若い人にはぼくのような生き方をしてほしくありません。今こんなにも瑞々しいあなたたちなのですから、若い今を満喫したらいいじゃないですか。
 誰一人として同じ人は存在しません。そして同じ毎日もきません。だからたった一度しかない今を、一瞬一瞬を楽しみながら生きればいいのです」
 話を聞きながら、涙がはらはらとこぼれ落ちた。
 十八年間、私はいったい何をして生きてきたのだろう。他人の言葉に流され、自分では何一つ決められず、過去と未来ばかり見ては悩んだり落ち込んだり……。
 アキを見る。アキも私を見ていた。今まで見たことのない、強いまなざし。彼もまた気づきを得たに違いなかった。
「あなたたちはもう気づいているはずです。ただそれを実行に移す勇気がないだけ。ほんのちょっと、勇気を出してみてください。そうすれば、悩みはおのずと消えていくでしょう。悩みというのは、何もしていない人の中で生まれ続けるものですから」


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