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【連載】チェスの神様 第三章 #5 再会

「どうしてここにいることが分かったの?」
「達彦に聞いたの。今日は図書館にいるって」
「家に行ったの?」
「行ったわよ。そりゃあもう口論になったけど、死ぬかもしれないってなったら何でもできちゃうものでね」
「…………」
「映璃ちゃんこそ、どうして私が母親だって分かったのかしら? 私は何度も写真を見せてもらっているから分かったとして、こうして会うのは十七年ぶりのはず」
「……におい」
 私が唯一記憶している母は、花のにおいの香水をまとっていた。もちろん、それだけでこの人を母親だと決めつけることはできないはずだが、女の勘、とでもいえばいいだろうか。加奈子は笑った。
「へぇ。分かるものなのね。達彦と会うときはいつもこの香水をつけることにしているのよ」
「……本当に、乳がんなの?」
 会って早々、ぶしつけな質問だと自分でも思った。でも加奈子はまじめに答える。
「ええ。……達彦には話してないんだけど、本当は来週、手術する予定になっていてね。会いたいって言われた時に会えなかったら悔いが残ると思って、こっちから来ちゃった」
「とても病人には見えないけど」
「どんなに体調不良でも顔に出さないのが役者というものよ」
 プロとしての意地を感じた。悔しいけれど、かっこいいと思ってしまった。
「病気になったからって、いまさら会いたいだなんて虫が良すぎるよ……」
 こっちも意地になって冷たい娘を貫く。でも、加奈子はそれを承知と言わんばかりに、
「分かってる。だけど、どうしても直接会って聞きたかったの」
 と言った。
「……映璃ちゃんには夢がある?」
「夢?」
「そう、将来やってみたいこと。私はね、子供のころからずっと女優になろうって決めてたの。だから演劇部に入ったり、舞台を見に行ったりして演技の勉強をしたものよ。映璃ちゃんにはそういう夢があるかしら?」
 力強いまなざし、自信に満ちた表情。私はそれに気圧されそうになった。
 子供のころからずっと憧れている職業があるわけではなかった。ただ漫然と毎日を過ごしてきただけの私には、加奈子の「夢」がまぶしすぎた。
「……幸せになりたい、と言ったら?」
 私の口から出たのはそんな言葉だった。
 夢というには小さすぎるかもしれない。けれど、今の私が一番望んでいるのは、たとえそれが小さいとしても「幸せ」になることなのだ。
 加奈子は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「好きな人がいるのね? その人と、幸せになりたい。そういうことよね?」
「……うん」
「……素敵な夢ね。映璃ちゃん、美人さんだからきっとモテモテでしょうね。お相手はどんな方かしら? 一度会ってみたいな」
「……笑わないの? 私の夢を。加奈子みたいに立派な夢でもないのに」
「幸せな家庭を築きたいって、立派な夢じゃない? 私が叶えられなかった夢を映璃ちゃんが叶えてくれるならこんなに嬉しいことはないわ」
「叶えられなかった夢……」
「舞台女優になって温かい家庭を築く。両立できたらどんなによかったでしょうね。でも、私にはできなかった。……努力が足りなかったのかな」
 実母のことはずっと憎むべき存在だと教えられてきた。だが、寂しそうに話す加奈子を見ていたら、本当に「育児放棄」をしたのだろうかと疑念がわいてきた。
「……幸せじゃないの?」
 思わず聞いていた。加奈子はくすっと笑う。
「もちろん幸せよ。だって、夢をかなえて女優やってるんですもの。ただ、別の幸せを選ぶこともできたなって思うだけ。人生、一度きりだもの。あの頃に戻って選びなおすことはできないけれど」
「女優として成功してから再婚しようとは思わなかったの?」
「再婚に何の意味があるというの? 達彦には恋人がいたし、あなただって吉川家の子供として育てられて久しいというのに」
「なら、そもそもどうしてお父さんと結婚したの?」
 一度も聞くことのなかった、出生の話。産みの母親が目の前にいる今だからこそ、私はそれを聞きたいと思った。加奈子は少し間をおいて、
「映璃ちゃんと同じ。幸せになりたかったから」
 と答えた。
「でも、私は結局家族の幸せを考えることができなかったの。自分の夢を、自分が幸せになることだけしか考えられなかった。だから、離婚は必然だったし、それでよかったと思ってる。あなたたちのためにも」
「家族がバラバラになったというのに?」
「家族だって他人よ。その関係を維持するのには相当の努力がいるわ。さっき、努力が足りなかったって言ったのはそういうこと」
「…………」
「達彦はね、当時新人だった私のファンになってくれた最初の人だったの。毎日のように公演を見に来てくれたわ。出番がちょっとしかないときだったのに、『君ならきっと大物になれる』なんて言ってくれてね。嬉しくて嬉しくて、ずっと一緒にいようねって、毎日言ってたっけ。
 本当は、夢を応援してくれる達彦に甘えていたかった。でもある時、気づいてしまったの。ずっと一緒にいたら、彼は彼の人生ではなく、私の人生を生きることになってしまう。そして、映璃ちゃんのことも巻き込んでしまうって。だから、離れて暮らす道を選んだの」
 父も加奈子も互いを想いあっていた。だからこそ、別れた。互いの人生をより豊かにするために。
 そんな愛の形があるだなんて思ってもみなかった。そして自分がちゃんと母親から愛されていたのだと知り、戸惑いを隠せなかった。
「ひどい女よね、私って」
 加奈子は自分を笑い飛ばすように言った。
「恋をして、結婚して、愛し合って子供を産んで、夢をかなえるために家族を捨てて。乳がんになったのはその報いじゃないかって思ってる。もう十分、好き勝手やったんだから悔いはないでしょって、神様が病気の種を植え付けたのよ、きっと」
「……手術するんでしょう? まだ、死ぬって決まってないんでしょう?」
「死んでくれたらせいせいするって言われると思っていたのに」
「そこまで性根は腐ってないわ」
 そういうと加奈子はほっとしたように笑った。
「映璃ちゃんの夢が聞けて良かった。これで安心して手術に臨める。……素敵な男性と素敵な家庭が築けるといいわね」
「それを聞くためにわざわざここまで……?」
「私が達彦と出会ったのが十八歳だったから。同じ年になったあなたがどんな夢を持ち、どんな人生を歩んでいくつもりなのか、知りたかったの。……これでも、あなたを産んだんだもの。娘の幸せを願うのは当然でしょう?」
「いまさら、母親ぶって」
「大病したときくらいいいじゃない。神様だって、そのくらいは許してくれると信じたいわ」
「加奈子……」
 その声に彼女が振り向くと、父が立っていた。
「来ないって約束じゃなかったの……?」
 その声にはとげがあった。しかし父は少しためらってから、
「映璃のことが心配で……。連れてっちゃうんじゃないかって」
 と言った。
「私のこと、信用してないのね」
「死ぬと思ったら何でもできるなんて言うからさ……」
「……そうね。でも安心して。そんなつもりはないから」
 父は「本当に大丈夫か?」といった目を向けた。私は小さくうなずいた。
「……三人で会えたのね、私たち」
 加奈子はしみじみ言った。
 父と私と加奈子と。本来ならば十八年間、一つ屋根の下で暮らしていたはずの家族が、ただ若かったというだけではない、さまざまな要因が重なって別々の場所で暮らさなければならなかった。再会する機会などなかったかもしれない私たちがこうして集うことができたのは、父が、それぞれの運命の糸を放さずにいてくれたからだろう。
 加奈子も同じことを思ったようだ。
「達彦のおかげね。感謝するわ」
「十七年かかっちまったけどな」
 加奈子の言葉に、父は少し照れたように鼻の下をこすった。
 もしかしたらこの二人は、私が聞いた以上に頻繁に会っていたのかもしれない。三人で会うタイミングを探りながら。
「だけど、これっきりね。きっと」
 加奈子はうつむき、胸を押さえた。私と父は顔を見合わせた。
「バカ言うなよ。加奈子はいっつもそうだ。すぐに自分から終わりにしようとする」
 父はさっと歩み寄り、加奈子を抱きしめた。
「死ぬなよ、絶対に。俺と……映璃を置いて先に行くなよ……」
「やーね。達彦にはすてきな奥さんがいるじゃない」
「加奈子以上に愛せる人はいないよ」
「……バカはそっち。もっと自分と、奥さんを大事にしなさい。……でも、そう言ってくれてうれしいわ。ありがとう」
 加奈子は父の唇にそっとキスをした。そして父の体を突き放した。
「おい、加奈子……!」
「会いたくなったらまた来てよね。一人のファンとして。私はずっと舞台にいるから」
 そういって歩き出す。
「……お母さん!」
 呼び止めたくて出た言葉がそれだった。加奈子は振り返った。
「……ありがとう、映璃ちゃん。また、会ってくれる?」
「会えるよ。生きていれば必ず」
「……そうね。会えるわね」
 その眼には涙が光っているように見えた。それを隠すように加奈子はサングラスをかけ、歩き出した。
 姿が見えなくなってようやく父が口を開く。
「……加奈子と何を話した?」
「別に」
「じゃあなんで『お母さん』だなんて呼んだんだ? 母親って認めてなかったはずだ」
「わからない、私にも」
「そうか……」
「でも……聞いていたより悪い人じゃなかった」
 父は「うん」と深くうなずいた。
「加奈子は自分のやりたいことを貫いただけ。それを、俺の親が勝手に悪く言っただけだ」
 やりたいことを貫いただけ……。その言葉は私の胸に深く突き刺さった。
 父は続けて、
「まぁ、俺もやりたいことをしてきたつもりだよ。加奈子の夢を応援してきたのもそうだし、映璃を見守ってきたのも、再婚してユリを育て始めたのも、みんな俺がしたいと思ったからしてることだ」
 と言った。
「じゃあ、お父さんの『夢』って……」
「自分の好きなことをやって生きる。これが俺の夢」
「加奈子の夢を応援したことも?」
「ああ。ただ、加奈子にとって俺たちはちょっとお荷物だったようだ。だから、残念だけど俺は加奈子の一ファンに戻って別の人生を歩みつつ、陰ながら応援してたんだ。ま、結果としてそれでよかったと思ってるよ」
 本当に加奈子のことを愛しているんだな、加奈子は幸せ者だな、と思った。
「……来週、手術だって」
 やはり父も知るべきだと思った。父は「えっ」と声をあげた。
「何日? どこの病院?」
「さぁ、そこまでは。連絡先、知ってるんでしょう? 自分できいて」
「ああ、そうする」
「……普通じゃないよね、あんたたちの生き方って」
 私の言葉を聞いて父は苦笑した。
「普通って、誰を基準に言ってんだ? 自分の人生なんだから、どう生きようが勝手じゃないか。誰かにとやかく言われる筋合いはないし、一度決めたことを変えちゃいけないってこともない。生きてりゃ、状況や気持ちなんて絶対に変わるからな」
「……そっか」
 そういう考えの父だから、加奈子との付き合いも続いているし、再婚にも至ったのだろう。
 恋人がいながら、別の男に心変わりする。そんなことは「普通じゃない」と決めつけ、思い悩んでいる私の心に、父の言葉が乾いた地面を潤す雨のようにゆっくりゆっくり染みこんでいく。
 どうしたらもっと自由に生きられるだろう? どうしたら自分らしく愛し合うことができるだろう……?
 しかし誰に問うても答えは返ってこないだろう。分かっている、自分で見つけるしかないってことは。でも、すぐに見つけることができるかどうか、自信はない。
 胸が苦しくなる。急にアキに寄り添いたくなった。
「お父さん、用が済んだなら帰ってくれる? 中で私を待ってる人がいるから」
「……例の恋人か?」
「そうよ」
「中にいるなら、ちょっと顔でも拝んでいこうかな?」
「やめてよ」
「冗談だって。映璃ももう、そういう年になったんだもんな。俺はおとなしく帰るとするよ」
 ゆっくりと帰っていく後姿は少し寂しげに見えた。ちょっと冷たく言いすぎただろうか。でも、きっとわかってくれたはず。
 私はその父に背を向け、アキのもとへ急いだ。

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