魚の小骨

いろいろなことを整理したくて、ここにきた。

この数日、刺激的だったのだ。
インプットが多すぎて、アウトプットが追いついていなかった。
とはいえ、楽しいことばかりである。
楽しいことも、内側への衝撃としては同じなのだと、誰かに教えてもらった。
だから、悲しみや怒りや嫌なことだけでなく、喜びであっても、楽しいことでも、遊びに行っても、こころにとってショックはショックだと。

楽しいイベントでも、からだはつかれている。終わってみると、帰宅すると、どっとつかれていることに気づいたりする。

からだと同じように、こころも休ませて、そこで感じたことや思ったことを出す必要がある。

出すのを先延ばしにすると、少しづづ不調がでてくる。

だんだん気が重くなったり、からだがかたくなったり、なんだか鎖骨のあたりや、背中や首の後ろとかに詰まっている感覚。
肌の調子がよくなかったり、あたまがまわらなかったり、視界がぼんやりとする。
何を食べたいのかわからない、
どこへ行きたいかも、どの服を着たいかもよくわからない、
どうして呼吸がしづらいのだろう?と思って振り返ってみると、
1週間くらい前の、ほんとに小さな違和感が魚の小骨のようにささっていたりする。

そしてそういうときはたいてい、
その1週間ヨガをしていなかったり、
文章も絵も、自分だけがみる日記すら書いていなかったり、
「アウトプット作業」をしていなかったときに起こりがちだ。

しかもそういう魚の小骨は、とても気づきづらい。
大きな出来事や、大ショックなこととか、すごきう嬉しいこととかはすぐに人に話したりするのに、
そういうことは自分では大したことはないと思っていたり、もしくは大きい出来事がたくさんあって後回しになったりして、もしくはわざわざ言うほどのことではないかと思ったり、そのまま通り過ぎてしまう。

ほんとうになんでもないことで、
ちょっとこうやって文章にかいたり、ちょっと人に話したり、
ちょっと絵をかいたり、ちょっとヨガをするだけで、小骨が気づいたらなくなっていることもある。

小さくみえて、とてもとても自分の核心をとらえて深く刺さっていたものだったりするときもある。

わたしが以前刺さっていた小骨は
うっ、、と刺さりすぎて、表面化されていなかった問題に刺さって、自分でもなんでそこに刺さっているのか見えてなくて、話さなかったことだったりした。というか、話そうとしてもよくわからなくて言葉にならなかったり、話してみたけど、だからなに??となって、そうだよねえとなったりした。
なんでだろうなんでだろうと思っているうちに
また全然関係なさそうな角度から
!!!とそれが見えて
これがこんなふうに、ここに刺さっていたのよと説明できたりする。

鋭く刺さりすぎて、人に言えなかった小骨もあった。言えないっていう気持ちがうすうすある小骨。でもちょっと痛いから、抜くのもこわいし痛いし、無理やり抜かれたらそれはそれでこわいし、ぐいと押されたり触られたりするだけでも痛いよと思って、あとでいいタイミングがきたらね、と(あわよくば知らないうちに抜けていてくれと願いながら)、そっとガーゼで包んで見えなくしておく。
これが無意識のうちに、一瞬でおこなわれたりする。これ以上傷つかないように、と守る気持ちで。

それか、あまりにもあまりにもショックなことは、もっと一瞬で、小骨の刺さった場所ごと、分厚い布やタオルで豪快に包んで奥にぽーんと放り込んでしまって、ヒュッと飲み込んでしまったりする。もうあとでね、なんていう余裕もない。今を生きるために、ええい!と投げ込むのだ。その理解のできない感情を、悲しみやら苦しみやら、どうしてこうなったんだろう、何が起きたんだろう、わたしはどんな感情なんだろうなんていうのを、今、この場でこれ以上感じてしまったら、、、考えただけでも不可能で、当時のわたしは、ええい!とまるごと理解も後回しに放り投げたのだった。それは、幼いわたしにとって、最も大切で、最も当たり前で、最も愛を注いだ、これさえあれば生きていけると思っていた基盤が崩壊したことだったから、今を、生きるためにそうしたのだった。わたしは心を、その状況の当事者ではなく、客観的な場所におくことによって、生きた。
この崩壊から、ええい!と放り投げて、客観的に立つところまでもが一瞬で行われていたと思うと、生命力はすごい。こころをぽーんとやってしまったので、どこからなにがわたしを守って生きる方向へ導いたのだろう。それが魂というものなのだろうか。

あのときぽーんとやった小骨、というかもう大骨をそこから10年かけて、いまゆっくりと取り除いているところだ。
かなり大変な作業なので、
生き延びる方法には全くおすすめしない。

そのあと出会うことになる相談できる人たちに
もしあのとき出会っていて、
行き場のない理解できない感情を話せていたら、
そんなことしなくてよかったかもしれないし、
まだ、取り除き中なので、
今のわたしにもよくわからない。
もっと頑固だったから、
今のわたしが話を聞きに行ってあげても
話してはくれないかもしれない。

わたしがその感情を思いっきり話すということは、
大好きな人たちを責めたり、悪くいってしまうことになるから、その人たちを悪く思われないように言うのは、その件に関しては難しいだろう。
でも、これに関しては、充分に言ってもいいのだ。
その人たちに直接言ってもいいくらいだ。
直接言うのは無理しなくていいから、言いたくなったらで、言いたいとおりでいいから、
わたしだけにそのときの気持ちを話してくれないか。
今のわたしは、それが起きてよかったと思っている。辛いし苦しいけど、すごくすごく幸せなことが待っているから。それが起きたからこそ、わたしはもっと幸せだから。
今行ったって、わたしにはどうすることもできないけど、いい方法もまだ見つからないけど、小さいわたしの話をきいて、その1人で背負った重荷をおろしたい。ただ、その小さい子がどう思っているかを聞きたい。いいも悪いもない、感情たちをただ聞いてあげたい。話していいよって言ってあげたい。

これをここに書いたことで
大きな骨がだいぶ抜けた気がする。
今までもぬいてきたつもりだけど、
どこまで遠くへ放り投げたのか。
たいへんすぎる。

小骨が新たに刺さったのではなく
相手の何気なく言った言葉や、単なる世間話など、なにかしらのそれに、すでに刺さっていた魚の小骨が反応し、そこで存在に気づくパターンもある。
それによって、わたしの中でうずくまっていた問題とか過去の悲しみとか、気になっていたこととかが、消化しきれてなかった課題とか、終わったはずの出来事とかが、わあっと引きづりだされたりする。

それがまさにさっき書いた
大きな骨の話だった。
小骨の話から、ほんとうに深いところまでいってしまった。

とにかく、
どんなに小さく見える小骨も抜くに越したことはないのだ。
こんな小さいのに、わざわざごめんなさいなんて思わなくていいから、遠慮せず、小骨を抜くのだ。
小骨にたどりつきたいから、一緒にきてくれと誰かにたのんでもいいのだ。
ひとりでえいや!と頑張って抜くものでもないし、力ずくで引っ張ればいいというものでもない。
案外、ふう、と、コーヒーなんかを飲んで、
好きなことをしているとからだは緩むものだ。
おいしいおいしいとご飯をたべているうちに、ひょろりと抜けていったりするのだ。

さあ、おやつの時間だ。
ブルーベリージャムのサンドイッチでも食べることにしよう。




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