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つながっていると、信じていくこと

小さい頃から、戦争や飢餓や温暖化や、とにかくその類のニュースが苦手だった。

「私たちが捨てているご飯を食べられれば、死なない子供がいます」
と言われると、お願いだからご飯をあげてと思ったし、
「温暖化で動物たちが死んでいきます」
と言われると、呼吸をして二酸化炭素を排出する権利が自分にはあるのかと、真剣に考えてしまうような子供だった。

どうして大人たちは、平然とニュースを聞いていられるんだろう。

そんな「居ても立ってもいられない」気持ちのまま大学生になった私は、国際協力をする学生団体に入会した。

そこでは、雑貨の販売や募金で集めたお金をカンボジアの孤児院に送ったり、企業のCSRと協力して学校を建てたりしていて、のめり込むように活動すればするほど、だけど私は落ち込んでいった。

活動はどれも地道で、手探りで、私たちが与えられる「めざましい変化」はほとんどなかった。手応えのなさ、無力さばかりが目についた。

自分たちの活動は、本当に彼らのためになっているのだろうか。

その問いが胸に張りついたまま、私は引退して、卒業して、そういった活動からすべて足を洗って過ごしてきた。

それから十年ほどが経った冬。駅前のカフェで席に着いたとき、窓の外に、ある募金隊がいるのが見えた。

コートを着込んだ何人もの学生たちが大きな声を出して、「お願いします」と呼びかけている。
その前を多くの人たちが素通りしていく。
ごくたまに募金をする人がいると、「ありがとうございます!」と、相手が恐縮するほど真っ直ぐな声が響く。

ああ、嬉しいよなぁ、と思った。その嬉しさには肌なじみがあった。
そして、ああ、彼らの活動には間違いなく意味があるなぁ、と思った。

彼らの活動が、そこで得た僅かずつのお金が、誰かを支えている。どんなに僅かでも、その価値は決してゆらがない。

私はずっと、期待し過ぎていたのだろう。
未来をよくしようとする活動が、一朝一夕にいくはずがないのに。それでも信じて、続けることに何より意味があるはずなのに。

ぬるくなっていたコーヒーを飲み干し、私は席を立った。
彼らに近づいていき、募金箱にそっと千円札を入れさせてもらった。

何かいい言葉を掛けたかったけれど、何も言えなかった。足早に立ち去った私の背中を、溌剌とした声が追いかけてきた。

お礼を言いたいのはこちらのほうだった。
つながっていると信じられる気持ちを、思い出させてもらえたのだから。


私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。