てんいす

毎週月曜に思ったことを出してゆく生き物だったもの ―― 現在休眠中

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最近の記事

「おやすみ」すらも僕が決めるから

 その時々の思いをとにかく外へと表してみよう ―― ちょうど一年前。そう決めて、ここへと書き始めたのだった。  外的な成功云々ではない。その行為によってこの内から何が昇ってくるのだろう、という自らの実感のこと。  一年前、確かに僕はそう思った。  そして今。何がしたいのかわからなくなってきている。  いや、わからないこと自体は大した問題ではない。わからないままに進む、暗中模索も一つのやり方ではあろう。  けれども、外へ向けてそれで本当にいいのだろうか?  人間社会として

    • 互いに「全部」と言ったのだもの

       最近のあなたは一体何をやっているのかしら?  おはなしとしては理解できる。  心といえば聞こえはいいけれど、本音の純度が高まれば、時としてとても生臭いもの。  わかっているの?  それを全部観てくれって、あなたそう言ったのよ。  全て見られるということは、崇拝から憎悪までの全てを思われ得るということ。  まさか …… 心と言いさえすれば、手放しで喜ばれるとは思っていなかったのでしょうね。  それでも構いはしないのよ。  嫌悪しながら、私はこのまま観続けましょう。  

      • ひとつの星を終えるとき

         僕は僕自身の手で、幼い心を崩さなければならない。  そう教えてくれたものがある。  昔の心が崩壊すれば、留まる言葉の反転は起こるよ。  崩壊とは、消えてなくなることではない。  一つの恒星が崩壊し、その内部で造られた原子一つひとつが集まって、また新たな星々が生まれる ―― この宇宙とは、その様にして続いてきた。  であるならば、旧い心の崩壊とは、新たなものを生み出すことなの。  悲しむべきことではないよ。  その様に教えてくれた君。  そのことを、大切に思いたい人と

        • 気持ちというより これは気分だ

           お遊びをやることと、遊びごとを本気でやることとは異なるから ―― そこがどうも難しいね。  という、今日はもうそれくらいしかないんだ。  毎週書き続けることに何か生じるはずだと、そう決めてnoteを始めた以上、何かしら書かなくてはならなくて。  それで時折困ってしまう。  書くことが無い、という意味ではない。  むしろ逆で、あまりにも身の丈に合わないでかい口をたたこうと思えば、それくらいの言葉はいくらでも浮かんでくるのだ。  だからといって、あれがこうでどうなったから

        「おやすみ」すらも僕が決めるから

          君へ名前を与えたい

           この心の、ただ鬱々とした混沌さへ名前を与えたい。  一年半ほど前だったろうか。名付けることの大切さ、というものを教わったことがある。  それがようやくわかり始めた。  相手と付き合ってゆくために必要な、知ろうとすることそのものだったのだ。そして、それぞれを形容するのに相応しい言葉 ―― それが、かつて聞いた名付けるということ。  そうできれば、付き合い方だって見えてくる。  心を物と勘違いしてしまったのである。  操れると思ってしまった。  操れると捉えれば、知ろう

          君へ名前を与えたい

          君と僕

           嫌いだと意識しながら、その奥では心がべったりとくっついてしまっていたんだ。  心と僕との乖離。僕を離れた心が向こうとくっついていた、ということ。  それで、嫌だと意識したものですら、心が離れられなかったのである。  それは、心が悪かったという意味ではない。  その心を遠ざけていたのは僕だ。  僕へと近付けなかったこの心は、別なる拠り所を求めるしかなかった。  ここに、心と意識との乖離が起こったのであった。  それがかつてのこと。  今、きっとここまで引き寄せられた。

          内の世間がようやく視え始めた

           世間というのはこの心の内に巣食う感じ方のことである。  そう言葉ではっきりと分かったのは、今年に入ってからだったかもしれない。  それからいくらかが経って、この内にこびりつく世間なる感触を、僕はようやく意識上に覚えることができるようになり始めた。  僕を捕らえ、何となくの全体性へ引き戻そうとするそれ。  全体性へと戻らない僕をなじり、否定しようとする。  僕が僕たろうと意識した時、世間が明確に牙をむいたのである。  戦うべきは、内なるあれ等だ。  ならば、内において戦う

          内の世間がようやく視え始めた

          優しさを求めているのだと仮定して――

           僕は優しさを求めているのだろうか。  ふと思ったことだ。  それは「〇〇さん優しい ~!」という形式的な誉め言葉ではなく、かといって神の愛とか仏の慈悲といった理想でもない。「こうしてほしい」という希求でなければ、「こういう場面ではこうすればいい」という方法論では有り得ない。  探し求めているものは、僕なりの優しさと呼べる何らか。  そうと仮定して ―― だとすれば、それはとても寂しいことだ。  世にある定まった形式や理想(理想ですらも世の中の発想だ)で満足していれば、

          優しさを求めているのだと仮定して――

          一人の君に許される

           あの人に僕の全てを許してもらおう。  そう決めた。  神様に許してほしいのではない。  一人のあの人に許してもらう。  社会的な ―― 謝ったから許すとか、優しくしてくれたから許すとか、許してくれたから許すとか ―― そういった許しではない。  ただ、僕というそのものを許される。  そう決めた時、戸惑い抵抗しているのは僕の側である、ということに気付いたのだ。  本当に、何もしないままでいる僕そのものが、許されてしまっていいのか?  神でも仏でも、何ら至高の存在でもな

          一人の君に許される

          意識の働かせ方を得る

           物語ることと、自身を表さんとすることとの異なり。  先週はそんな話をしたのだった。  その異なりの定義がわかったのではないけれど、今の僕に必要なものはわかってきた。  この意識の働かせ方を強化する必要があるのだ。  意識の強化、ではない。  この意識とは、既に充分強く在る。これ以上意識そのものを強化することは、独りよがりとかエゴイズムという道しか開かない。  この世界に自分一人しかいないのであれば、それもまたいいのだろうけれど …… 事実として、たくさんの他人と暮らして

          意識の働かせ方を得る

          創ること 表すこと

           僕もそれなりに、創作というものには手を付けたことがあって …… どうにも続かないな、ということの要因は色々にあるはずで、世に言うモチベーションの問題だけではないだろう。  自分の場合、書(描)くという行為自体に問題があるのではない。  ここへこうして書き表すことは、まだ一年と経っていないけれど、個人的な日記というのはもう五年半も毎日続いている。  なら、その日記くらいの感じで毎日少しずつ創ってゆけないの?というと、途端に駄目になってしまう。  物語ることと、自分自身を表

          創ること 表すこと

          気分をつかみ取る

           自分自身の気分なんだな。  世の中では、何が正しいとかどういう生き方が云々とか、色々に言っている。  しかし自分の生き方とは、その時々の自分自身の気分をつかみ取ってゆけるかという、そこの所にしかないものではあるまいか。  個人の自由にさせてしまうと自分勝手になる、と言う人々もいるだろう。  しかし、他を害する勝手さとは、全体のルールを外れる中にある。  社会のルールを保ちつつ、個人の自由に振る舞うことは可能なはずで、そういった”社会のルール”と”個人の振る舞い”を混同し

          気分をつかみ取る

          てのひら

           交わるという強度がとても激しいもので、手をつなぐというささやかな力強さがかすんでしまう。  それで、交わることばかりを求めてしまうのだ。  この心に君を欲した時、最初に求めたものとは、そのような交わりではなかったはずだ。  それがいつしか、激しいものでなければ収まりがつかなくなっている。  どうすれば、あの日のささやかさへと立ち返ることができるのか?  それは、過去へ戻りたいということではない。  元々何をを求めていたのか。本質とは何だったのか。  思い出し、歩み直す

          依存という一事について思い考えていたらどうにも長くなった

           依存、という言葉があって ―― それが良いのとか悪いのとかに色々言うけれど、一体それはなんなのだろう。  依存はやめて自立しなくちゃあいけないんだ、という言い方は理解できるし、いやいや様々な人に寄りかかって生きているのが人間なんですよ、という言い方もわかる。  わかりはするけれど …… それでいて、彼らの言い方に僕がどうも納得できないでいたのは、それらは皆表面的なことを語っているのではないか、という危惧であったのだろう。  表面的な行為。あるいは、表面的な好き嫌いという心

          依存という一事について思い考えていたらどうにも長くなった

          想うというもの

           僕は互いを想い合いたい。  想うとは、ジャンルとしての恋愛ではなく、テクニックとしての傾聴でもない。  互いに今まで生き抜いてきたでしょう、ということ。  僕という人間に、生まれた所があって、育った場所があって、人も物も様々があって ―― 好む好まざるとに関わらず、それら全てが僕を形成したはずだ。  今僕のどこまでが生まれ持った性質で、どこからが育ってきた環境という要因であるのか。あるいは、今この環境が思い言わせているものなのか。  それらを明確に区切ることは出来なくて

          想うというもの

          おはよう

           僕にとって、外の世界とは鬱陶しくてたまらないものだったんだ。  生まれた時からそうだったのではない。  それなりの経験というものはあったわけで …… いや、今回その話は置いておこう。  なんにせよ、子供の頃から外の世界というそのものが嫌だったんだな、ということ。  自分を主張できないということ ―― どうしてこんなにも駄目だろうと、ずっと不思議に思っていた。  世の一般論に訊けば、嫌われたくないとか自信がないとか自己否定とか云々。  もちろん、それらが間違いだというつも