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虚無の穴

虚無の穴、が、そこらじゅうにあった。

と言っても、単に私の感覚で、そう感じていたというだけなのだけど。

虚無の穴は、いつの間にか気が付いた時には、私の心の中にあって、大きく口を開いていた。
幸せも楽しい気持ちもやる気も夢も希望も、うっかりすると全てそこへ飲み込まれて消え去ってしまうような、そんな感じの穴だ。
気を抜くと足を取られて、私自身すら飲み込まれてしまいそうな、そんな穴だ。

そしてその虚無の穴は、私の心の中だけではなくて、そこらじゅうにあるんだ。

路地裏の細い建物と建物の間のちょっとした隙間だったり、
歩道橋のかげに自転車が乗り捨てられているあたりや、
美しいデパートの中でそこだけ違う気配をもった従業員通用口の扉や、
夜の帳が静かに美しい真っ赤な夕焼けを飲み込む瞬間とか、
可愛いあの子の一瞬の真顔その瞬間の虚ろな瞳とか、
終電なのに誰も降りないような平日夜の無人駅とか

いくらでも、どこにでも、存在していて、気を抜くとすぐにそこに引き寄せられて、飲み込まれてしまいそうになる。

いやに明るい街の夜、赤紫の空にも、嘲笑うみたいに大きな口が裂け目のように開いて見えた。

そんな空を睨んでは、吸い込まれまいと、飲み込まれまいと、虚無の穴といつも戦っていた。
きっとそれは、自分自身の心の中の虚無の穴が広がらないようにという内なる戦いでもあった。

虚しい
悲しい
淋しい
苦しい
そんな気持ちにいつもすぐに支配されてしまいそうで、毎日毎日それらとの戦いだった。

同じくらいの年のみんなは、何故か毎日輝いていてとても楽しそうで、悩み事の内容も私とは違って思えた。

自分がおかしいのか、と思いながら、
その反面で、自分は特別なのか、
と思っている自分もいた。

そんな、ある種の愉悦に浸りながら、闇(病み)をうっすら纏ったフィクションのような現実を生きていた。

空虚さを埋めたくて、満たされたくて、優しくしてくれる誰かのぬくもりにとりあえず抱かれてみたり、紛らわすために酒を飲んで酔っ払ってみたり、不安を吐き出すように煙草を吸ってみたりした。
だけど、それらは、全く逆効果で、そんなことをすればするほどに、ゾッとする程に、虚無の穴は大きく口を開き、私のすぐ足元まで迫って、一層深さを増していくようだった。


だけど、いつしか気付くと、虚無の穴なんて、どこにもなくなっていた。
結婚をした頃?
それとも、子どもを産んでから?
いつからだろう、自分では、気が付いていないうちに、全てが変わってしまっていた。

そういえば、「自分は何者なのか」「自分の生きる意味は」「自分は何を為すべきか」・・・というようなことも、考えなくなっていった。

結局、離婚をして、人生のパートナーを失い、特に何か大それたことを遂げたわけでもない、ただ年だけとってふりだしに戻ったような私だけれど、あの頃とは、何かがちがうようだ。
心の中に確かに開いていた虚無の穴はどこにも見当たらず、あったはずの場所は何事もなかったかのようにつらっとしている。
最初からそんなものなかったみたいに。
お酒もほどほどに楽しめれば酔っ払わなくても良いと思うようになったし、大切にしてくれない人の温もりなんて却って気持ちが悪いだけに感じるようになったし、あれだけ大好きだった煙草もやめた。
心を埋めるために必死にしていたことを全てやめたのに、なぜこんなにも満たされた気持ちなのだろうか。皮肉なものだなと思う。

ただ、でも、何も手に入れていないのに、心が満たされてしまった今の私には、夢も欲もあまりない。
欲は無いというと嘘になってしまうけれど、何か突き動かされる程の強い衝動や欲求は、ほぼ無い。

苦しくて仕方がなかったし、早くどうにかして虚無の穴から逃れたかった。
影のようについてまわる虚無の穴に、追われ続けるのは嫌だった。

なのに、虚無の穴が幻のように消えてしまった今、それはそれでなんだかふと不安なのはなぜだろう。

鈍感力を手に入れてしまった私は、きっとあの頃のような敏感で繊細な感性は無くなってしまっただろうな、と、そんな気持ちになるのが不安の正体なのかな。

年をとる、というのはそういうことなのかもしれない。
見たくないものが視界から消えていくのかも。
例えば、子どもの頃は幽霊が見えていたけれど、大人になったら見えなくなった・・・という人の話と同じように。
子どもの頃は苦手で食べられなかった味のものが、大人になったら食べられるようになるのと同じように。
子どもの頃は聞こえている高い音が、年とともに聞こえなくなっていくのと同じように。
私たちは、知らず知らずのうちに、何かを失って、かわりに図太くなって生きていく。


だけどね、街を歩いていて、あの頃、虚無の穴を見つけたそんな場所を通りがかると、感じるんだ。
なんとなく、もやっとした、後ろ暗い気配。
そこには、近づいてはいけないような、僅か禍々しい空気。
ああ、きっと、そういう場所は、変わらずにあるんだ。

それに触れたら、また心に穴が開いてしまいそうで、怖くなって私は足早に離れる。

きっと、心に穴が開いても、私は大丈夫だけどね。
どんなことをしたら心や体が喜んで、自分が満たされるのかを、経験で知っているから。

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