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大学生活 第2章スタート


4月から、大阪芸術大学の映像学科研究室にお世話になってます。
大学職員というと聞こえはいいけれど、単にフルタイムのアルバイトって感じです。

いざ1ヶ月やってみて、そろそろ落ち着いてきたものの、やっぱり学生の頃とは違う、そして卒業制という立場ではなく職員として働く難しさも感じ始めております。

大学に戻って驚いたこと


で、大学に入って一番驚いたことがあります。
それは想像以上に映画離れが進んでいるということです。

新年度の初め、各学年が一堂に会して、ガイダンスなるものをやるのですが、その際に、大森一樹監督(学科長)が、
「ドライブ・マイカーを見た人は手をあげてください」
とおっしゃったんですよね。

あぁ懐かしい、僕らの時は『ララランド』だったなと思ったんですが、驚いたのは手を挙げた人数。たった三人でした。映像を学ぼうとしにきてる新入生100人くらいの中で、たった三人だけだったのです。

ドライブマイカーが傑作だったから質問をしたわけではないと思います。事実、学科長自身も、自分はいいとは思わなかったとおっしゃてました。要するに、アンテナを張っているのか、いろんなものに興味を持っているのか、そういう意味での質問だったと思います。ちょうどウィル・スミスがビンタをした直後の日程だったので、余計にその意味は大きいと思います。

ちなみに僕らの代で「ララランド」を見たと手を挙げたのは20人くらいだったと思います。

これほど映画離れ、邦画離れは深刻なのか、と驚く事態でした。

個人的に驚いたこと


これは全く極私的な事なのかもしれませんが、『海底悲歌』を見たい、話を聞きたい、と僕に声をかけてくれた学生が、数人いた事です。

少しは期待していたとはいえ、それはきっと上級生(3,4年生)あたりだと思っていました。しかし、蓋を開けてみると、新入生の、しかも女性の学生が数人、話しかけてくれました。一人の女性には、ディスクを貸し出し中。他の子には、返ってきたら貸すね〜と。

それから喫煙所で、よく知らない2年生の学生が、
「来年、堂ノ本さんみたいにロマンポルノイズムを感じる映画を撮ろうと思ってるんです。製作で入ってくれませんか」
と、直談判されました。

丁重にお断りしたものの、自分の経験や今思うことを話し込んでは、また何かあったらいつでも聞きにきてよ、と良き先輩を演じました。

私が大学でピンク映画を志向して映画制作に臨んだことは、自分が思うよりも影響力があったんだなと感じました。

大阪芸大といえば、山下熊切世代の「大芸ヌーヴェルバーグ」が少しばかり業界に新風を巻き起こしましたが、私の後に連なって、「大芸ピンクヌーヴェルバーグ」なんてムーブメントになると、嬉しいんですけどね…

ま、それはないか(笑)


それから、これまた驚いたことに、「堂ノ本さんのnoteを読みました」「noteを読んで、大阪芸大に決めました」という学生に声をかけられたこと。ほほ〜、そりゃ馬鹿でござんすね、なんて嘯いたものの、内心ではめちゃくちゃ嬉しかったです。

中には、有料記事を購読している学生もいて、
「そんなの読まなくていいから、DVD買え!」
と、ばっちり宣伝をしながら、意気揚々と帰路につきました。

それがきっかけで、再び重い腰を上げてnoteを更新しているわけであります。

個人的に超絶胸熱だったこと


ある日、新入生の必修授業「基礎映像計画」なる授業において(この授業は台本の読み方や考え方、香盤表の書き方といった基礎をみっちり楽しくおかしく教えてくれる授業です)

突如、金田敬監督に呼び出されました。
一体何をやらされるのかと思い、恐る恐る授業に顔を出したのですが、

「彼は、機材係の堂ノ本くんです。君達の先輩で、ここの卒業生です。
そして、俺らと同じ監督です。卒業制作として作った映画を、劇場で上映して、DVDまで販売して、それは全く俺らと同じ状態です。学生やからって小さくまとまっちゃいけませんよ。どこまでだってできるんですからね」

と紹介に預かる。この段階でも、胸熱なんですが、

「堂ノ本くんは、卒業制作でピンク映画を作りました。昔からそういうものが好きで、それを作りたくて映画を学びにやってきて、きちんと作りました。ピンク映画ってのは、男女の恋愛・性を扱うジャンルです。
で、君たちに言いたいのは、『そんなんやっちゃいけない』とか思ってない?ってこと。ピンクなんか、やっちゃいけないのかな?」

ここでしばしの静寂です。

「ピンクなんか、やっちゃいけないのか」

一言で、言い得て妙だと思います。ピンク映画にいまなお関わる金田監督だからこその、熱いエールだと思いました。

そして、金田監督は続けます。

「もし、この中にそんなことを思う人がいるのなら、それは大間違いだよ。やっちゃいけないことなんか、何もないからね。君たちがやりたいことを、とことん突き詰めてやればいいんだよ」

なんて愛のあるメッセージなんでしょうか。私自身も、学生時代はそんなことを少しばかり考え、作った後も「こんなもの」と先生やら学生に言われました。でも、金田監督のように、ずっと応援してくれた人がいたからこそ、『海底悲歌』はできたのです。

1年生の初回の授業で、これをはっきりという。この大学の、この学科の、そして映画人としての矜持をまざまざと感じた瞬間でした。

そして、それを私を例に話したこと、それこそが本当に胸熱な出来事でした。わざわざ大学に舞い戻ることを、金田さんは暗に反対してましたが、戻ってきたからには停滞した映画人生を必ず動かしてやろうと、改めて決意できた瞬間でした。

思い返せば、『海底悲歌』の上映中止の際、
「大阪芸術大学が、映像学科が、上映を中止させた」という誤認がする方が少なからずいました。それに対して、猛烈に反発していたのが、金田監督です。先述の言葉を聞くと、やはり一貫した矜持を感じます。

ぜひ、新入生初め、今の学生諸君には、自身のやりたいことをやりたいままにやって欲しいと思います。


解決したこと


実は大学に戻るにあたって、この件の問題は解決したのか、という疑問をいただくことがありました。

実を言うと、働き始めて1週間くらいまでは、全く解決していない問題でした。顔を合わせても、僕の方は全く無視をした状態で、どこかで仕事としての関係だけは成立させなくては、と思っていたのですが、、、

ある日の研究室で、アキさんと遭遇。不意打ちをつかれたため、互いに気まずそうに「おはよう」とだけ挨拶を交わしました。

その様子が、いかんとも言い難い、申し訳なさそうな表情だったため、こりゃ仕事がしづらい、と、意を決して、アキさんの元へ向かいました。

「アキさん、話があって」

と、声をかけると、彼は安堵のような表情で私にこう言いました。

「あの時は本当に申し訳なかった。あれから、本当に色々考えた。思えば、自分が小僧の時も、同じように苦しくて、そんなことを忘れて、強くやりすぎた。間違っていた。」

私はこれを聞いて、なんだか自分の胸につっかえていたものが取れた感覚に陥りました。それから、2時間ほど、以前のようにタバコを吸いながら、近況報告をしました。

アキさんは仕切りに、J太郎の話を聞き、
「あいつが映画を続けてくれてて本当に救われた。もし辞めてるって聞いてたら、俺も映画をやめなくちゃいかん、と悩んでいた」
と打ち明けました。

そう言う話をJ太郎自身にも伝えると、彼自身も私と同じような感情になったのでしょうか、

「ありがとうと伝えてほしい。俺も会いにいかないと」

と、返しました。

互いに美談で終わらせる気はないけれど、ようやく一つの問題が収束に向かったのではないでしょうか。私は、アキさんの学生への接し方が、人が変わったかのように、明らかに変化していたのをこの1ヶ月見ました。

みなさん、僕たちはもう解決しました。本当にありがとうございました。

今は、いつまでもあの日記をおいておくのもどうなのかな、と思っています。そろそろ、削除する時期が来たのかもしれないと、思っています。


まとめ


てな感じで、私の大学生活第二章はスタートしたばかりではありますが、着実に何か一歩一歩進んでおります。

業務が暇なタイミングでは毎日次の企画を考える時間も取れ、日銭を考える心配がなくなったことで、昨年よりもずっぷりどっぷりと、映画漬けの毎日を送っています。

また、何かあれば更新したいと思います。

少しでも私のことを応援したいなと思って下さった方、そのお気持ちだけで励みになります。その上で、少しだけ余裕のある方は、サポート頂けますと幸いです。活動の一部に利用させていただきます。