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チベット仏教を学びにインド留学してきた。

気づいたらインド留学を終えてから4ヶ月も経ってしまいました。
時間が経つとともにだんだんと過ごしていた時間が消化されて、今アメリカの寮の部屋で振り返ると、本当にあの時間は本当だったんだろうかということが不思議に思える。

今後の自分自身のためにも、今まで説明をしていなかった知り合いの人々に向けても、なぜインドに留学したのか、どんな時間を過ごしたのか、何がTakeawayだったのかをある程度まとめておきたいと思います。かなり散文的になりますが、ご容赦ください。

目標はいくつか記事が書けたら、Zineに出来たらな〜と思っています。

チベット仏教の特徴的なルンタ(お経が書かれた風に揺れる旗)

なぜチベット仏教を学びにインドへ

インドにいたのは合計4ヶ月。2023年の8月18日から12月19日まで滞在していました。インドに行ったのは自分が通っている大学がオファーしている”Tibetan Studies” 「チベットスタディーズ」の留学プログラムの一環でした。
まずデリーで集合し、最初の1週間それぞれ異なる宗教の聖地である数都市を周りました。ラジスタン州にあるヒンドゥー教の聖地プシュカル、パンジャブ州のシーク教の聖地「黄金寺院」があるアムリトサルなどなど。
留学期間を通じて北インドを中心に色んな都市に行きましたが、4ヶ月間でほとんどの時間を過ごしたのは北インドのダラムサラ(Dharamshala)という街です。ダラムサラにはチベットから中国共産党の侵略から亡命してきたダライ・ラマ法王が住んでおり、チベット亡命政府(Central Tibetan Administration)がある、いわば亡命チベット人たちの首都のような街でした。

山沿いの斜面に沿って発展したダラムサラの街

「チベットのことを学びに行くのに、なぜチベットではなくインドに行ったのか?」というのは、話をするとほぼ全員から聞かれる質問でした。インドにいる間も、「チベットはどう〜?」というメッセージを幾度となくもらった。今回の留学プログラムでは一度も、中国占領下のチベットには行ってないです。

中国共産党がチベットに侵攻し、ダライ・ラマ法王が1959年にインドに亡命して以来、何百万人ものチベット人が国境を越えネパール、ブータン、そしてインドへと難民として亡命しています。今ではインド中にチベット人コミュニティが点在し、各地域にチベット仏教の僧院や教育機関が存在しています。

ダラムサラの仏教論理大学で先生のTselek-laと。ヒマラヤが後ろに見える。

チベット人の大学で学ぶ

今回の留学では、自分がアメリカで通っているEarlham Collegeが提携を持っている、ダラムサラにあるダライ・ラマ法王が創設したInstitute of Buddhist Dialectics(仏教論理大学)とその大学の管轄にあるCollege for Higher Tibetan Studies, Sarah(サラ・チベット大学)の二つの大学に滞在して授業を受けていました。受けていた授業は主に以下の4つ。

  • チベット語

  • 仏教哲学

  • チベット薬草学

  • チベットの文化と歴史

仏教論理大学では、ダライ・ラマ法王の宗派であるゲルク派の僧侶や学生たちが、最終的にはゲシェ(Geshe)というチベット仏教における博士号に相当する学位を取得するために学んでいます。(このゲシェの学位を取るには20年もかかるとのこと、、!)。

サラ・チベット大学は、チベット語やチベットの歴史、文化などの高等教育を提供しているインドの中でも数少ないチベット人の大学です。留学の最初の1ヶ月はサラ・チベット大学の寮に滞在して、チベット人の学生や留学生の人たちと一緒に時間を過ごしていました。

留学前には、チベット人の大学と聞いてお坊さんしかいない環境かと思って行ったら、実際には自分と同じ年代くらいの僧侶ではないチベット人の若者たちが沢山いたことにとても驚かされました。チベットコミュニティでも収入の良い職を得るためにインド人たちと同じ理系の大学へ進学する人も増えている中、サラ・チベット大学に来る学生はコミュニティがどんどん現代化している中でチベット人としての文化や歴史を学び受け継ぐために学びに来ている人が多かったように思います。出会った人々は年代も来た地域も本当に様々でした。

自分のルームメイトは南インドのカナルタカ州のチベット人地区から来ていました。南インドの他にも北インドのラダックやレー、カシミール、東のアルナチェル・プラデシュやアッサム、ヒマラヤ周辺のネパール、ブータンなどのエリア。さらにはオランダやアメリカなどの西洋圏のチベット人ディアスポラに生まれ育ったチベット人の若者たちが、チベット語や文化を学ぶために留学しているケースも多く見かけました。
とても驚いたのは、ラダック・カシミール・ネパール・アルナチェルプラデシュ・ブータンなどのヒマラヤ山脈周辺の地域では国境を跨いでチベット仏教の信仰やチベット語が使われているなど文化が共有されていることでした。インドと中国という地図上では二つの超大国があるようにしか見えなかったのが、今回をきっかけにその間にあるチベット・ヒマラヤ文化圏の広がりが可視化されました。

チベット人のルームメイトたち。自分の右がルームメイトのチョヤン。

そして留学生も本当に様々な国から来ていました。韓国・ベトナム・タイ・ロシアなどの地域の僧侶の人々や、アメリカ・ヨーロッパなどの欧米圏から仏教やチベット語を学びに来ている学生などなど。たった数百人ほどの学校に、あそこまで様々な国と地域、そして年代の人々が集まっている光景は、今考えると本当に不思議でした。そして、ここまで色々な国の学生がいるのに、日本人の学生がいなかったこともひとつの驚きでした。自分が聞いた中でも、今まで日本人が来たことは見たことがないと学生たちは話していました。留学生たちに話を聞くと、毎年アプリケーションはオープンになっていて、チベット語やチベット文化について学べるプログラムに入れるとのことだったので、もし興味がある人はおすすめです。(そして学費も日本と比べるとかなり安い、、!)

深夜テンションで書き始めたので、とりあえず今日のところはここで一度ストップします。

なんでインドにチベット仏教を学びに来たのか?ということや、どんな授業を受けていたのかなどについて、次は書きたいと思います。
継続することが本当に苦手なので、感想や疑問など反応いただけると次の記事を書くモチベに繋がります、、

読んでいただきありがとうございました。

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