「何者」かになりたいあなたへ

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」:廻るピングドラム

小学生の頃、好きな映画は「ターミネイター2」と「ナイトメアビフォアクリスマス」だった。

それぞれの主役、T-800もジャック・スケリントンも方向性は違えど、とても個性豊かで子供心に「かっこいい、こういう風になりたい」と思ったのを今でも覚えている。

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という言葉がある。元はフランスの画家ポール・ゴーギャンが1897年から1898年にかけて描いた絵画のタイトルであり彼の作品のうち、最も有名な絵画の1つである。タヒチで描かれた作品で、現在はマサチューセッツ州ボストンにあるボストン美術館に所蔵されているそうだ。

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「何者」の定義は「何」だろう?
社会的知名度か、技術の習得なのか、あるいは自分の功績、歩んで来た道のりなのか?

おそらく上記の物に加え「アイデンティティ」やコーチングで言う「ミッション」が確立されている人を筆者は「何者」と呼んでいるのではないかと思う。

ここで1つ気になったのが『「何者」を定義するのは誰か?』と言う点だ。

「きっと何者もなれないあなたへ」

こちらの記事にしろ、どうも他人が「何者か」を評価する基準になっている様に感じられる。つまり誰か他の人が「この人はこうだ」、と評価したことが自分の「何者か」の基準になっている。

果たしてこれは幸せなことなのだろうか?



コーチングの世界では「Want toのゴール」と「Have toのゴール」と言う呼び方をすることがある。

「Want toのゴール」とは自分がどうしても達成したくてたまらないゴールであり、それに対して「Have toのゴール」は「達成しなければいけないゴール」と定義されている。この事から「Have toのゴール」は「他人から与えられたゴール」、「洗脳されたゴール」と呼ばれる事もある。

「何者かになりたい」と言うのはどちらのゴールだろうか?

もちろんどちらもあり得る。ただし「何者」の定義を他人に委ねている以上は「Have toのゴール」にしかなり得ない。

「「みんなが認める『何者か』になれる人」なんて、そんなに大勢はいないのだし、運とか巡りあわせみたいなものもある。」

この文章を見る限りでは「Have to のゴール」ではないだろうか。

また「Have toのゴール」には大きな特徴が1つある。『達成感が「Want toのゴールに比べて希薄」』なのだ。

心理学者アブラハムマズローは「欲求段階説」を提唱したが、この「Have to」のゴールは大体、第4段階目「承認欲求」に属することが多い。

では「Want toのゴール」としての「何者かになりたい」と言うのはどの様な者だろう?

まず「Want toのゴール」の定義から始めよう。

「Want to」のゴールは「〇〇したい」と言った様な「自発的な意思」、「内発的動機」を必要とする。なので他者の評価のような「外発的動機」を「必ずしも要しない」。

つまり「承認欲求」を必要とするわけではないのだ。その代わりに第5段階目の「自己実現欲求」を必要とする。その欲求が「〇〇したい」の様な願望に変わる。つまり「何者かになりたい」の「何者」の部分の定義が「他者から評価された何者」ではなく「自身が評価した何者」になるのだ。

評価基準が「他人軸」から「自分軸」に変わる事とも言える。では「実現したい自己」、「高評価したい自己」はどの様に定義すればいいのだろうか?

これを定義する前に今の自分を見てみよう。自分とはどの様な存在なのだろう。

「身体的・外見的特徴」の他に「これが好き」で「あれが嫌い」で「これが得意」で「あれが不得意」の様に、自分を説明することは色々なフォーマットで可能だ。一度集めて見てもいいかもしれない。もし集めるのならば下記のようなツールが有効だろう。

ストレングスファインダー

偏愛マップ

そうして自分の特徴を集めてみれば、自分の「個性」が見えてくるかもしれない。場合によっては「欠点」が見えてくるかもしれないが、それは気にしなくていい。なぜなら「欠点」とは「長所の裏返し」であり、「自分の性格、個性、能力」がたまたま環境にうまく適応しなかった時に現れるものだからだ。



では自分の「偏愛」、「特技」が平凡な物であった場合は?

これも問題ない。

奈良市立一条高校校長であり、教育改革実践家でもある藤原和博氏は「才能の掛け算」についてこう語る。

「ある分野で100分の1になったら、次は営業ならマーケティング、経理なら財務というように、隣り合う分野にシフトして100分の1を目指す。2つの分野で100分の1の人材は、100分の1×100分の1=1万分の1の希少性を持つ。このかけ算が重要なのだ。」

つまり平凡な才能でも掛け合わせることにより「非凡な才能」になりうるのだ。

もし、「自分にはそんな平凡な才能すらない」と嘆くのであれば、試しに、自分の周りにいるすごい人3人をピックアップして、そのすごさを分析して取り込んで見てはどうだろう?周りにだれもいない?では好きな小説、映画、アニメはどうだろうか?


「ごちゃまぜカメレオン」と言うエリック・カール氏による世界中で人気の絵本がある。

主人公のカメレオンが色々な動物に憧れ、その動物のいいところを真似しているうちにどんどん原型を失っていき、最後にはお腹が減って元に戻ってしまい、結局は、ありのままの自分が一番いいんだ、と締めくくられる。

絵本の中では元に戻ってしまったが、現実の世界では元に戻ることはない、誰かの素晴らしい部分をメタ化して自分の血肉に取り込んでしまえばそれはもう自分の一部なのだ。

また、世の中、特に高度な専門技術や知識を要求される世界においては「当人にとっては当たり前」の事でも「第三者からしたらとてつもない事」である場合がある。上記ブログ記事の『医者という職業だけで、「あなたは何者かになった」と評価してくれる人もいるけれども、当事者にとっては、そういうものでもないんだよなあ。』という文章はその典型的な例だと思う。



長くなったがまとめてみよう。何者かになりたいならば、

1.まず分析しよう、自身の「何者かになりたい欲求」は、「承認欲求由来」なのか、それとも「自己実現欲求由来」なのか?

2.「どう」認められたいのかを決めよう。

3.自分の「武器」を確認しよう、自分の「能力」「偏愛」は何だろう?それを組み合わせて「新しい何か」にできないだろうか。「才能」がない?だったら周りの人のいいところを積極的に取り入れてみよう。

4.自分の進むべき方向が決まったらあとはすべてのリソースを投入するだけだ。頑張れ!


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