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花山法皇ゆかりの地をゆく

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平安時代を生きた花山法皇ゆかりの地を実際に訪れる紀行文です。 花山法皇は平安時代中期の第65代天皇で、986年に藤原兼家(藤原道長の父)の陰謀で発生した寛和の変により、わずか2年… もっと読む
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花山法皇ゆかりの地をゆく【番外編】~退位後の足取りを考える 前編~

「花山法皇ゆかりの地をゆく」という、花山法皇の伝承を残す地を旅して、それをnoteの記事にするという活動を昨年の11月から続けている。 花山法皇は若くして愛妻を亡くし、幼馴染でもある政敵に裏切られて出家をするという波乱万丈の人生を送り41歳で病死した。 その生涯において、朝廷での政治闘争には敗れても、処断されたり自害したりもせずにたくましく生き延びて日本の各地を歩き回り、主に西日本の広い範囲で花山法皇の伝承を残した。 これは、明治天皇より前の天皇在位経験者としては、流罪にな

花山法皇ゆかりの地をまとめた(西国三十三所を除く)

花山法皇については西国三十三所の中興の祖として知られ、三十三所の各寺には花山法皇が詠んだとされる御詠歌が残されているが、花山法皇が地方巡行に訪れたのは三十三所の寺院ばかりではないようだ。 考えてみれば当たり前で、法皇が地方に出向くとなれば律令制当時の各地の国司が出迎えることになるだろうし、そうとなればその国の最高建築であった国分寺と国分尼寺の参拝は欠かさなかっただろう。また、花山法皇が長徳の変後の十数年を暮らした花山院菩提寺は御幸中に訪れて気に入った場所であったというのだか

花山法皇ゆかりの地をゆく①〜花山院菩提寺、紙屋川上陵編〜

今、花山法皇が俺の中だけで熱い。 きっかけは、大鏡でも栄花物語でも拾遺和歌集でもなく、そういった古典がきっかけならば知的かつ風流で格好良かったのかもしれないけど、高校生活をサボった私は古典も日本史もさっぱりだった。 正直に告白をすれば、数年前のネットで花山法皇がバズったのが原因だ。 その時から、バズった中で話題に挙がった花山院菩提寺だけはいつか行っておきたいと思っていたところで、例のコロナ禍で頓挫していた。 そのまま、すっかり忘れていたが、先の11月連休の前々日の2023年

花山法皇ゆかりの地をゆく②〜阿伏兎観音、山口県編〜

前から何となく訪れたいと思ってはいるけど、実際には行かずにそのままにしている場所というものを、皆さんはお持ちではないだろうか。 私の場合、広島県福山市と山口県美祢市がそれであった。 広島県福山市は、学生時代に知って気に入ったある楽曲の歌詞が福山市を舞台としたであろうと、後年になってその楽曲の作詞者のプライベートの報道記事や発表内容から、勝手に推測していた。しかし、実際の歌詞に具体的な地名が入っているわけでもなければ、公式で作詞者ご本人がこの楽曲についてより詳しい情報を発信し

花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜

旅と称して花山法皇のゆかりの地をストーカーのように追っていて、その旅行記を二度、note記事に書いて公開してきた。振り返ると、これまでの旅は行先の決め方を、あまりにも思い付きの気が向くままの行き当たりばったりであったと自省するようになった。 誰に批判される謂れのない、きわめて個人的な旅行なのだから、自分の思うように好きな時に好きな場所へ行けばよいのだが、歴史上の場所を尋ねる際には、事前に歴史を十分に調べて時系列に沿って訪れないと、現場を見ても大事な点を見落としてしてしまい、的

花山法皇ゆかりの地をゆく④〜谷汲山華厳寺編〜

今回でこの「花山法皇ゆかりの地をゆく」シリーズ、略して花山法皇シリーズは4回目となる。 本来であれば、次の花山法皇シリーズは1月の後半に宿を予約しているので、もう少し後になる予定であった。 そのような予定であったのだが、ふと思うところがあった。 note記事に限らず、ブログやYouTube動画にせよ、個人がネット上で公開しているシリーズものというのは、4回以上で作者に継続の意思ありと見え、8回以上で連続ものとして閲覧する価値が出てきて、20回以上で連続作成された作者の経験

花山法皇ゆかりの地をゆく⑤〜熊野古道、熊野三山 前編〜

関東地方に住んでいると、紀伊半島の伊勢や和歌山、あるいは吉野でもよいのだが、それより南のいわゆる南紀地方へ訪れようとする機会がめっぽう少ない。 紀伊半島を観光で訪れるとすれば、主な目的は温暖な気候、温泉、海岸、史跡になるのだろうが、関東から黒潮沿いの温暖な気候の保養地、温泉地、海岸を求めるのであれば、紀伊半島よりはるかに近い伊豆半島や房総半島がある。 史跡探訪の場所としての伊豆や房総は熊野に遠く及ばないのかもしれないが、熊野が世界遺産に登録されたといっても、上皇による熊野御

花山法皇ゆかりの地をゆく⑥〜熊野古道、熊野三山 後編〜

前編からの続きです。 2024年1月20日土曜日の14時30分、私は熊野速玉大社の駐車場を出て、雨の新宮市街地で車を走らせていた。 次の目的地は青岸渡寺である。 青岸渡寺は熊野那智大社と那智の滝が併設されており、おそらく多くの観光客にとっても熊野や南紀観光の主要な訪問地となるだろう。 花山法皇においては那智の滝で千日行、つまり三年弱は青岸渡寺で修行をして暮らしたのだから、花山法皇のゆかりの地を訪れる私にとっても重要な訪問地だ。 しかし、新宮の市街地を出て那智勝浦新宮道に

花山法皇ゆかりの地をゆく⑦〜鳥取市、高梁市 前編〜

鳥取へ2024年2月10日の土曜日、歯医者の定期検診を終えた私は、品川駅10時28発のぞみ131号に乗車した。 三連休の初日ということもあり、2,3分おきにのぞみ号は運行されているにもかかわらず新幹線は満席との車内放送があった。 品川駅では三列シートの私の横二席は空席であったが、横浜駅で私と同じ年齢程度と思われる母親と成人していると思われる男性の親子が座って来て、二人で仲良く二つの弁当を食べ合っていた。仲良くというのは少し語弊があったかもしれない。母親の方は妙に息子に甘えて

花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜

前編からの続き 因美線と津山城今回の旅は、花山法皇ゆかりの寺社を訪ねるだけではなく、鳥取市の覚王寺から高梁市の八幡神社や深耕寺のある神原地域までを歩いた想定で、その軌跡をたどる旅のつもりでもあった。 したがって、東郡家駅から智頭駅まで乗ってきた因美線もその目的の一つだったわけだが、前日にスーパーはくと号で通過をしていたためか、今日はいまいち気分が乗らないまま通り過ぎてしまった。 しかし、これから乗車する智頭駅から南側の、私にとって初見である上に、全通前に言われていたところ

花山法皇ゆかりの地をゆく⑨〜那谷寺編〜

学校の授業では、歴史も古文も大嫌いだったが、花山法皇のゆかりの地をめぐるようになって、花山法皇についての資料も多少は読むようになった。 現存する花山法皇について記した一次的な資料は、「小右記」「大鏡」「栄華物語」程度のもので、それらを研究した論文として代表的なのは今井源衛の「花山院研究」があるが、これらの資料が描く花山法皇は、女たらしの好色、いたずら好きの奇人、でも芸術関連での才能はあった、程度の人物像しか見えてこない。 花山法皇がモデルの現代小説として、三島由紀夫の「花山

花山法皇ゆかりの地をゆく⑩〜高知鳴瀧八幡宮編〜

昨日は足利直冬の紀伊南朝軍征伐の軌跡を追い、雨の中を山中にある城跡を訪ねて、和歌山市内のビジネスホテルに泊まった。 今回の旅では、直冬の旅を昨日で終え、今日からは花山法皇の旅に切り替えて和歌山から高知を目指す。 これはいわゆるコラボレーション企画旅であるが、自分の中だけでそんなことを言っても、こっぱずかしくて白けてしまう。 和歌山から高知へ2024年3月24日、日曜日の7時50分、昨晩泊まったホテルから20分近く歩いて昨日下車した南海電鉄の(JRもあるけれど)和歌山市駅ま

花山法皇ゆかりの地をゆく⑪〜大入集落跡、笠置山 前編〜

誰に頼まれているわけでもないのだが、一人で勝手に花山法皇にゆかりのある場所を旅していると、どうしても花山法皇の生涯がどのようなものであったのかについての興味が湧いてくる。 とはいえ、興味は湧いたものの、1000年以上も過去の人であるから客観的で公式とされるような記録は残っていないのに加えて、歴史上においても藤原道長や紫式部のようなその当時の主役のような人物ではなく、負け役のわき役のような人であったから、断片のような情報しか残っていない。 それでも、花山法皇のゆかりが残る地を