見出し画像

花山法皇ゆかりの地をゆく⑪〜大入集落跡、笠置山 前編〜

誰に頼まれているわけでもないのだが、一人で勝手に花山法皇にゆかりのある場所を旅していると、どうしても花山法皇の生涯がどのようなものであったのかについての興味が湧いてくる。

とはいえ、興味は湧いたものの、1000年以上も過去の人であるから客観的で公式とされるような記録は残っていないのに加えて、歴史上においても藤原道長や紫式部のようなその当時の主役のような人物ではなく、負け役のわき役のような人であったから、断片のような情報しか残っていない。
それでも、花山法皇のゆかりが残る地を実際に旅してみて見聞した印象と、残されている情報をつなぎ合わせてみると、歴史書の定説となっているような花山法皇像とは異なる、あらたな花山法皇の生涯が見えてくる。
こうして見えているのは所詮は私個人の妄想に過ぎないのだが、ロマンという言い方だってできる。

そのロマンでコーティングした妄想をまとめて、以下のnote記事として投稿をした。

上記のリンクにある記事は「前編」とあるように、前編のみを2月に公開したのだが、後編を八割ほど書いたところで筆が止まってしまった。
原因は高知県の八幡神社と愛知県の大入集落跡が未訪問であったためである。

私の花山法皇の生涯は、花山法皇の伝承が残る地を実際に訪問した印象に基づいている。
したがって、妄想のような仮説とはいえ、訪問していない土地を残したまま妄想を進めてしまうのには気が引ける。

そもそも、高知県の八幡神社も愛知県の大入集落跡も、花山法皇の生涯を追うと、実際に訪れた可能性は極めて低い。
あえて、花山法皇が訪れたと考えるのであれば、高知県は山口県正法寺に滞在した時期に、藤原純友の海賊の残党に助けれらて逃れてきたのかもしれないし、愛知県の大入集落は、西国三十三所巡礼を終えた後に訪れたかもしれない。
しかし、これらの仮説はいずれも強引なものであり、無理があるように思える。
これらの土地は、花山法皇の周りに数十人はいたと思われる取り巻きの修験者か、女たらしで鳴らした花山法皇の記録に無い子息が、京から落ち延びで開拓した辺境の土地と考えるのが自然であるように考えるのが自然であると思っていた。

そのようなわけで、八幡神社も大入集落跡も、どうせ花山法皇が実際に訪れた可能性は低いからと、未訪問のまま花山法皇の生涯を書き進めてみたのだが、花山法皇の生涯を改めて考え直してみると、上記二件の場所についても実際に花山法皇は目的をもって訪問し、ある程度の期間は滞在したのではないかという思いが出てきた。

すると、どうしてもこの二件も訪問せざるを得なくなる。

私の花山法皇の生涯は、ゆかりの地を訪問した印象をもとに書いている。
花山法皇については、すでに文献から研究はされつくしているだろうけど、各地に残る伝承をつなぎ合わせた彼の生涯の仮説というのは、奇特であるけど奇抜で唯一でもあるから、この点は譲れない。

というわけで、まだ花粉が激しく舞う3月に、高知の八幡神社を実際に訪問した。

この訪問で、八幡神社近辺にある出見集落というのは、明らかに身を隠して潜伏生活をするための集落だと思われた。
重機で崖が削られてアスファルトで舗装された県道が通る前は、海で断絶された陸の孤島のような土地であったと思われる上、さらに花山神社の裏に隠れたような集落があるのは、執拗に身を隠そうとしてこの土地を開拓した痕跡であるように思われた。

もし、この土地を開拓したのが花山法皇本人ではなく、取り巻きの修験者や子息であったとすると、ここまでして身を隠す必要があったであろうか?
やはり、花山法皇というビッグネームであったからこそ、徹底的に身を隠す土地が必要であるように思われた。

それであれば、俄然、大入集落跡についても気になる。
大入集落が人里から隔絶した、人里離れた山奥深くにあるというのは、ネットの情報から調査済みだ。
しかし、大入集落跡がどのような場所であるかをこの目で見て、脚で歩いて確認したいと思うのは、ここまできたらむしろ自然の成り行きであろうと思われる。

そのようなわけで、2024年GW後半の四連休は大入集落跡を訪問すると決めた。

大入集落跡までの移動手段は、これまでの花山法皇ゆかりの地の訪問ではいずれも公共交通機関を利用するのを主としてきたが、今回の大入集落跡について最寄りとなるJR飯田線を使うには不便すぎると判断し、バイクでの訪問とした。
バイクで走り回るのであれば、色々と融通が利く。
同じように花山法皇の伝承が残る岐阜県恵那市の笠置山、さらに中山道に置かれていたという花山法皇像を祀っている長野県塩尻市の善立寺も予定に組み入れた旅とすることにした。

東名高速

本記事での訪問地

2024年5月3日の金曜日、バイクで自宅を午前1時40分に出発した。
前回のツーリングで、連休であっても初日の深夜に出発すれば渋滞に巻き込まれないだろうという目論見があった。
果たして実際に渋滞には巻き込まれなかったが、交通量は前回のつーりんつぐとは異なり、思いのほか多かったし、新東名のSAやPAの入口は渋滞しては入れない状態になっていた。

5月2日はGWでありながら平日であったが、有休が取れたので昼間の間に十分な睡眠をとっておいた。首都高の湾岸線からレインボーブリッジを渡って環状1号線、3号線と進み東名高速に入る。
気温が低い中でのバイクは寒さが染みる。風にあたると余計に寒さが染みるので、速度を出さずにトラックの後ろに金魚のフンの様に張り付いて進む。
しかし、そのように走るのも伊勢原あたりで飽きてきて、大井松田インターを越えたあたりで、比較的速い乗用車の後ろについて走る。

東名高速の下りルートが左右に分かれるのは右ルートを選び、その左右ルートも合流すると現れる足柄SAに到着した。3時20分であった。

足柄SA

足柄SAは乗用車の駐車が、ほぼ満車になっていた。
ほとんどの車には、中に人がいるようで仮眠をとっている様子だ。
これからGW。前日のうちに首都圏の渋滞地帯を抜けて、SAで睡眠をとっているレジャー客が多いようだ。

私はトイレを済ませて、無料のお茶で冷え切った身体を少しだけ温め、すぐに足柄SAを出発した。

今年のGWは昼間は真夏日のように暑くなるが、夜になると寒い。
まるで砂漠のような気候になってしまった。
本日も例外ではなく、昼の暑さにつられて薄着で東名高速を走っているが、寒くて仕方ない。
グリップヒーターを一番熱くしていても、寒さが勝ってしまう。
本来はこのまま浜松SAまで無停車で行くつもりであったが、この寒さのまま走り続けることはできないと思い、新東名に入って最初のPAである駿河湾沼津SAは我慢して通過したが、次の清水SAに4時20分に到着して、上着を一枚さらに羽織るようにした。

清水SA

このジャケットの効果はてきめんで、どうにか新東名を走っても寒さを凌げるようになった。

こうして問題を一つ解決すると、新たな問題が出るものだ。
どのSAやPAもGW直前の仮眠乗用車で満車になっているらしく、清水SAから先の静岡SA、藤枝PA、掛川PAと、全て入口で渋滞ができてしまっている。
これでは次に止まる予定だった浜松SAも同じような感じなのだろうかと、暗澹たる気持ちでバイクを走らせていたが、案の定、浜松SAの入口も渋滞になっていた。

渋滞の最後尾に並んでみるが、数分経っても進む気配がない。
みんながみんなではないだろうけど、駐車している乗用車のほとんどが短時間の休憩ではなく仮眠をしているのであれば、SAの進入を待つ列が進むはずはない。
バイクと乗用車は駐車するスペースが異なるのだから、すり抜けてしまっても良いように思えるが、それはマナー違反のように思える。
浜松SAでは給油もするつもりだったが、もう少し燃料は持つはずと思い、渋滞の列から外れて、新東名を進むことにした。

浜松SAを過ぎてすぐの浜松いなさジャンクションで、新東名を離れて三遠南信道を北へ進む。新東名は渋滞とはならずともGWの行楽へ向かう乗用車で溢れていたが、この道に入る車は少ない。
ようやく、気を遣わずに走れるわい、と思った矢先、バイクのメータの給油サインが点灯した。

燃料はほぼ満タンで自宅を出発したはずだから、あと60~80kmは走れる目算だったのだが、ここで給油サインが出るとは思っていなかった。
このバイクは給油サインが出てから走れるのは40km程度。
これから大入集落跡の入口で駐車して、その後に給油をするのでは若干心細い。
やはり、すり抜けをしてでも浜松SAで給油しておけばよかったと後悔をしてももう遅い。
三遠南信道の終点である鳳来峡インターを降りてすぐのファミリーマート新城名号店に止まる。時刻は5時40分になっていた。

とりあえず、このコンビニでトイレを済ませて朝食のサンドイッチを買い、バイクの横で立ってサンドイッチを頬張りながら、これからどうするかを思案した。

ファミリーマート新城名号店

これから、大入集落跡への登山を始めるわけだが、給油を済ませないまま登山を始めるのは危ういように思える。
登山を終えてからバイクを走らせて、まもなくガス欠となってしまうのは、体力的にも気力的にもよろしくないし、それからJAFを呼ぼうにも、GW連休の初日であるからいつ救援に来てくれるかもわからない。
さらに、こういう不安を抱えたまま登山をすると、不注意を呼び登山中の事故にもつながりやすい。
しかし、この見渡す限りの田舎としか言いようがない奥美濃の地域では、24時間営業のガソリンスタンドなどあるはずもない。
実際にGoogleMapで調べてみても、最も近いのは浦川駅近くのガソリンスタンドが7時から営業しているようであるが、今日は祝日。こういう、田舎のガソリンスタンドは休祝日が休みという店も多い。GoogleMapでも祝日の営業状況までは確実な情報を載せていない。

この近辺では一番大きい町である東栄町へ行けば何とかなるのではないかと思い、コンビニを出て東栄町へ向けて国道151号線を北上する。
東栄町にはまもなくついたが、二軒あるうちの一軒は祝日は休み、もう一軒は7時30分から営業とのことだが、祝日に営業しているかがわからない。
7時30分まで待っても良いが、ハズレだった時のショックが大きいと思い、Googleの口コミでは休日も営業しているという浦川駅前のガソリンスタンドへ行くことにした。

6時40分、浦川駅前のガソリンスタンドに到着した。
営業している気配がないので、ガソリンスタンド前に駐車し、とりあえず営業開始時間となっている7時までは待ってみるかとと思っていたら、給油機の電源が入るのが見えた。
営業時間前だが営業開始の準備を始めているようだ。
今回の旅も、少し運が向いてきたような気がする。
間も無く店員さんが店を開け、6時45分には無事に給油することができた。
千葉からの訪問客が珍しいらしく、店員さんからはどこから来たのか?とか、どこへ行くつもりなのか?とか、色々と聞かれた。

浦川のガソリンスタンド

大入集落跡

浦川のガソリンスタンドを出て、本来の目的地であった、国道473号線から分岐する愛知県道429号線に入る。
この愛知県道429号線を進んだ先の山奥に、目的の大入集落跡はある。

大千瀬川を渡す橋を越え、素掘りのトンネルを抜けた先に乗用車が一台、駐車されているのが見える。
とりあえず、トンネルの手前にバイクを駐車させ、徒歩でトンネルをくぐって先を見てみると、トンネルの先には先に見えていた乗用車も含めて四台の乗用車が駐車しており、その先に通行止めの電光掲示板が設置されていた。

大入集落跡へ行くには、この通行止めの県道429号線を歩いて進む必要がある。
乗用車の間にバイクを止めて、登山用の服に着替えて登山の準備をする。
7時6分、通行止めのゲートを越えて県道429号を歩き始めた。

愛知県道429号線の通行止入口

現在の県道429号線は車での往来を禁止しているが、アスファルトの舗装は残っていて、その上に枯葉や枝が積もっている状態だった。きっともう少し進むと、苔が生えている場所もあるだろう。

第二トンネルと呼ばれる素掘りのトンネルを抜けて、大入川沿いに上流に向けて左岸を遡上するように進む。
しばらく歩くと大入川を越える橋があり、そこを越える。
すでに使われなくなった県道429号である。この橋が崩落すれば、本当に大入集落跡への訪問は困難になるだろう。

橋から大入川を眺める

橋を越えると、再度通行止めのゲートがあった。
横にはこの先に土砂崩落個所があることを示すA4サイズの掲示がある。それは事前に調査済みなので、特に何も思うことなく、通行止めを越えてさらに県道429号を進む。

土砂崩落個所に到達した。
確かにこれを修復するのは大変だろうし、修復しても大して使われない道であれば、いっそ通行止めにしてしまうのも仕方ないのかもしれない。
崩落個所の岩を乗り越えて進む。
途中、5~10mほどの長さだが、足場がほとんどない斜面を、飛び出した鉄柵などにつかまりながらトラバースする。あまり歩きたくない箇所だ。
今回は、大入集落跡からさらに上の尾根沿いに出て下山するつもりなので、帰りにこの崩落個所を再び通ることは無いが、再度通るのはごめん被りたいと思った。

県道429号の崩落箇所

崩落個所を越えると、県道429号の道の荒れようはさらにひどくなった。
アスファルトが崩れていたり、大きな落石が残されていたりした。
それでも徒歩であるく分には問題ないので、そのまま進む。

紙に印刷しておいた国土地理院地図とYAMAPアプリ、それに周辺の景色をそれぞれ見比べながら、大入集落跡へのとりつきとなる谷を探す。
ずっと県道429号の山側は崖であったが、落石注意の標識の横にかなり大きく開けた谷となっている箇所を見つけた。

この場所が大入集落への入口に違いないと思い、この谷沿いを登る。

大入集落跡への取り付き箇所

ここから先は、地理院地図上も道が記されていない。それでもかつては大入集落と下界を結ぶ登山道があったようであるから、廃道としてどうにか人が歩ける状態にはあるようだ。

実際に谷を登り始めると、わずかに人の踏み跡が残っているのが見える。
県道429号の入口に乗用車が4台もあったのだから、先行者が居るのは当たり前なのだが、こういう踏み跡を見つけると少し安心する。
とはいえ、踏み跡は途切れつつわずかにしか残っていない。
地面は柔らかく、強く踏みこむと沈んで滑る。

大入集落跡に続く谷にある小さな石垣

標高差にして50mほど登ると、谷の中腹に小さな石垣があった。簡素ではあるが明らかな人工物である。
さらに谷を登ると、白いビニールテープが木に結わえ付けてある。ここからは尾根沿いにトラバース道を進む。
斜面を削って作ったトラバース道は、規模の大小、養生の有無にかかわらず、時間が経てば土砂に埋もれるか崩れてしまう。この大入集落跡に続くトラバース道もいずれは人が通れなくなるのだろうけれど、今はどうにか人が歩けるくらいにはしっかりしていた。

大入集落跡に入って最初に見えた石垣

手元のガーミンで標高550mを確認した辺りで、歩いているトラバース道から上を見た斜面に長い石垣が見えた。
大入集落跡に入ったようである。

大入集落跡を今に示す石垣の規模は思っていたより巨大であるようだった。
斜面沿いに高さ1~3m程度の石垣が200~300mはつながっていて、多い箇所では3段くらいに石垣で平地が築かれている。
おそらく、石垣で築かれた平地には家屋か田畑があったのだろう。

大入集落跡の石垣

こうして改めて大入集落を歩いて訪れると、石垣の規模からこんな何もない山奥によくもまあ築き上げたものだ、と圧倒されるとともに、こんな何もない山奥になぜ?という疑問が湧き上がる。

少なくとも、大入集落を最初に開拓した際には、石垣を築くための石切りの技術をもった者、家屋を建設する技術を持った者、田畑を開墾する技術を持った者などの技術者も入植したはずである。
そうでなければ、このような制約も大きく何もない厳しい環境の土地で、人が住み続けられる環境を作れるはずがないように思う。
私のような何も知らないド素人が、このような山に入って自給自足の集落を作ろうとしても、建物は縄文時代の竪穴式住居をさらに粗末にしたものしか築けず、どうにか土を掘り返して田畑を作ってみてもすぐに土砂崩れでダメにしてしまうだろう。
近隣の人里の民の力を借りようにも、この場所は人里から遠すぎる。どうしたって入植者だけで、この何もない山奥で一から人が住める環境を作り上げなければならないし、環境を作るまでの食糧や最低限の器具類だって事前に確保しなければならない。
そういった準備を含めて、人里離れた山奥で集落を築き上げた人物は、本当に花山法皇だったのだろうか。しかし、法皇や高級貴族クラスの権力や財産が無ければ、確かに何もない山奥に集落を築けなかったのではないかとも思えた。

石垣を登りながら奥へと進む。

事前に調べた通り、元は二階建てだったという崩壊した家屋を見つけた。
以下の動画を見るに、少なくとも13年前の2011年には、まだ往時の建物の形を保っていたようである。

家屋をよく見ると、ガラス戸が見えた。確かに昭和の時代までは、この集落に人が住んでいたのだろう。
家屋の周りには、サビた一斗缶や一升瓶、火鉢などが打ち捨てられていた。

崩壊した家屋

崩壊家屋のさらに奥へ進むと、石垣で作った平地ではなく、斜面沿いに建てられた小屋のような建物をみつけた。
この小屋は人が住む場所というより、蔵か物置の類だったようだ。
小屋は外見の形は残しているが、中を覗き込むと床は崩れて抜けてしまっているし、斜面側の壁も崩れてしまっていた。

小屋らしき建物

これから、大入集落に住まう人たちの心の拠り所であったと思われる、花山神社へ向かう。

先達の登山記録によれば、大入集落の東側の尾根をトラバースして尾根上に登り、それから西に下って花山神社に到達したようである。
私も同じルートで花山神社を目指そうとしたが、この尾根のトラバース道が途中から細くなっており、どうにも人が通れるような状態にない。

花山神社へ回り込むトラバース道
この先でさらに道が細くなり歩行を断念した

尾根を登ってしまおうかと思ったが、登ってみて歩けないと判断した後、無事に下れる自信がない。一度滑ってしまったら、トラバース道を越えて崖下へ真っ逆さまになる可能性もある。
ロープを持ってくればよかったなと後悔してももう遅い。
しばらく思案をしたが、トラバース道は引き返して一度小屋の前まで戻る。

あらためて地図を見れば、大入集落跡の斜面に沿って上っても花山神社に到達できそうである。
そもそも、大入集落から裏の尾根をぐるっと回らないと到達できないようなアクセスの悪い場所に神社を設置するはずがない。
素直に大入集落の斜面を登れば花山神社に到達できるだろうと、斜面を登ってみたら、案の定、花山神社に到達することができた。

花山神社前には墓石や石像が多数あった

花山神社手前のコル(尾根の標高が低い部分)には、墓石と思われる石碑と、小さな石像がたくさん置かれていた。いや、どれも傾いていて整列している様子も無いから、打ち捨てられていると言うべきか。
石像に掘られた文字を見ると「花山弥太郎」という文字が見える。
大入集落の住人の苗字が「花山」であったから、花山法皇がここに隠棲した伝承になっているものと思われる。

石碑がおかれた場所から少し登ったところに、花山神社と思われる社殿があった。

花山神社

建物内には、いくつもの祠が納められているというか、こちらも壊れていて捨てられていると言った方が良い状態だった。
祠の他にも賽銭箱らしきものも見られた。このような山奥の集落でも、貨幣が流通していたのだろう。

これにて、私の大入集落跡訪問は終わった。
本来はこの後、東の尾根へ登り尾根沿いに浦川インター横の集落に下山する予定であった。
しかし、ここから尾根へ登る道がはっきりしない。
花山神社から東を見ると、たしかに大入集落跡とは反対側にトラバース道はあるのだが、これがどこまで続いているのかわからない。
尾根を直登した方が良いように思えるが、登ってみて進み切れず、かといって降りることもできなくなって進退窮まった状態にならないとも言えない。

そもそも、ガイドも無しに単独で地理院地図上も記されていない道に踏み入ったのだから、無理はいけないと思い、来た道を引き返すことにした。
県道429号の崩落個所を再度渡るのは危険だし気も進まないが、地図に無い道を探して山中をさまよう羽目になるよりはずっとマシである。

復路の下山は登りよりはるかに楽であった。
やはり、初見の道を歩くというのは気を使う。しかも、道標もなければ地図にも載っていない道ならばなおさらだ。
そういう意味で、同じ道を戻るというのは気持ち的には大分楽である。

11時40分、県道429号のバイクを止めていた場所に戻ってきた。

大入集落跡の訪問について、あっさりと書いてしまったが、実際、登山を経験したものからすればあっさりしたものである。
距離と標高差は、せいぜい京王線の高尾山口駅から高尾山を越えて城山まで行って帰ってくる程度のものであるし、県道429号の崩落個所も、一般の登山道でもあの程度のトラバースは普通にある。
YAMAPの記録を見るに、大入集落跡を訪れる大抵の登山者は、大入集落跡だけでは満足できず、さらにその奥にある離山という山まで足を延ばすようだ。
とはいえ、通行止めとなっている箇所を通過し、地図に載っていない道を行くのであるから、この記事を読んで大入集落跡に行こうとする方がいれば、重々の準備をして臨んでいただき、実際の行動においても慎重な判断をしてほしい。

今回の大入集落跡訪問のYAMAPリンクを以下に示す。

東栄町と設楽町

予定では大入集落跡からの下山時間を13時から15時の間を見込んでいたのに、随分と早い時間の下山となってしまった。
早く下山する分には問題ないとはいえ、本日の宿泊予定の宿のチェックインの時間までを持て余してしまう。

とりあえず、バイクを走らせて東栄町へ再び訪れた。
まずは東栄町の花祭会館を目指す。

東栄町の花祭りは、700年前から続く国の重要無形文化財にも指定されている、由緒のある祭りである。
一説には花祭りの花は、花山法皇から取られているとのことだが、その真偽は不明である。
そもそも、700年前から続いているというのであれば、花山法皇の時代とは300年の隔たりがある。
とはいえ、大入集落の住民が越冬前に人里に降りて、越冬に必要な食糧を得るために人里で鬼の面をかぶって歌や踊りの見世物を催したとすれば、祭りの起源には合点がいく。
300年というブランクは、本来は人目を避けて暮らしていたのを、その必要が無くなったからと考えられるし、鎌倉時代あたりで地球全体が寒冷になったという説もあるから、そのあたりから大入集落内部の農作物だけでは暮らせなくなったとも考えられる。また、記録にあるのが700年前からというだけで、もっと前から大入集落の住民が人里に降りては見世物を催していた可能性だってある。

そのような東栄町の花祭りについての展示がされているとのことで、花祭会館を訪れたのだが、入口には「本日、貸し切りのため、見学できません」の無情な掲示がされていた。
私のような無学な者が花祭会館の展示物を見たところで何もないのかもしれないが、せっかく訪れたのにという悔しさは少しは湧き上がる。

しかし、入れないものはどうしようもないので、次の訪問地を目指すことにする。
花祭会館からはピアノの練習音が聞こえていた。音楽会の練習でもしていたのだろうか。

東栄町の花祭会館

東栄町には、とうえい温泉という立ち寄り湯がある。
登山後の温泉は定番であり格別であるし、風呂上りにビールを飲めればなお最高だ。
本日はこの後もバイクでの移動があるから、ビールは我慢せねばならないが、温泉に浸かれるだけでもありがたい。

花祭会館については残念であるが、気持ちを切り替えてとうえい温泉へ向かう。

12時15分、とうえい温泉に到着した。
GWの昼間だけあって駐車場は満車に近く、バイクも20台以上は止まっている。
もしかしたら入場制限などかかってはいやしないかと心配したが、そのようなことも無く入場できた。
風呂場の脱衣所のロッカーにも空きがあり、無事に温泉に浸かることができた。

とうえい温泉

風呂に浸かって汗を流し、温泉を出たのは13時ちょうど。
ここからバイクで本日宿泊の宿へまっすぐ向かえば、どんなに多く見積もっても1時間はかからないはずである。
チェックインは15時からであるから、まだ時間を持て余している状態であるのに変りはない。

とりあえず、とうえい温泉内の食堂でカレーを食べながら、次の行動をどうするかを思案した。

とうえい温泉のカレー

カレーを食べ終わり、とうえい温泉で時間を潰すのにも限界となってきたので、バイクにまたがり、本日の宿泊地へと向かうことにした。
しかし、まっすぐ宿泊地へ向かってしまうと、まだチェックイン前に到着してしまう時刻である。
なので、少し寄り道をしながら宿泊地へ向かうことにした。

国道473号に入り、東栄町を抜けて設楽町に入る。

東栄町でもバイクは多かったが、この辺りからバイクの数がさらに多くなったように思えた。
おそらく、この辺りは名古屋や岐阜などの中京地区のライダーが集まる地域なのだろう。
関東の伊豆や奥多摩にあたるような、ライダーが集う地域なのだろうか。
交通量は少なく、緩やかなワインディングロードが続くから、バイクで走るには気持ち良い場所だ。

強い日差しと涼しい風のバランスがよろしく、花山法皇や大入集落跡など関係なく、素直にバイクでここに来てよかったなと思える。

宿泊地へ向かう道から少し逸れて、13時55分、道の駅したらに到着した。
ここには、豊橋鉄道の旧型車両が展示されているとのことなので、それを眺めるつもりでやってきた。

豊橋鉄道田口線というかつてこの地域を走っていた鉄道の車両が、きれいな状態で保存展示されている。
中に入ると、床はすのこで養生されており、ロングシートはそのまま残されていて、天井に当時の路線図などの展示がされていた。

道の駅したらに保存されている豊橋鉄道田口線の車両

保存車両を見終わると、道の駅の中も一通りは見て回ったが、特に何も買わずに道の駅したらを出発した。

14時40分、宿泊地まであと数キロという地点にある、道の駅アグリステーションなぐらに到着した。
宿に着いて飲むためのビールを買い求めるつもりであったが、この道の駅ではビールを販売していなかった。
外の屋台でアイスコーヒーを買って、強く照らしつける日差しを避けた日陰の外の席でコーヒーを啜る。

道の駅アグリステーションなぐら

もう宿にチェックインしても良い時間になったのだが、宿の中でビールを買えるかわからない。この名倉という集落には、コンビニのようなビールを販売している商店もないようだ。
宿に電話をして聞けばよいのだろうがそれも面倒だし、買えても妙に割高だったりするかもしれないので、少し遠いが宿を5kmほど越えた先にあるコンビニまでバイクを走らせ、ビールとペットボトルのお茶を購入して、本日の宿泊地へと向かった。

(後編へ続く)


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?