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花山法皇ゆかりの地をゆく⑧〜鳥取市、高梁市 後編〜

前編からの続き

因美線と津山城

今回の旅は、花山法皇ゆかりの寺社を訪ねるだけではなく、鳥取市の覚王寺から高梁市の八幡神社や深耕寺のある神原地域までを歩いた想定で、その軌跡をたどる旅のつもりでもあった。

したがって、東郡家駅から智頭駅まで乗ってきた因美線もその目的の一つだったわけだが、前日にスーパーはくと号で通過をしていたためか、今日はいまいち気分が乗らないまま通り過ぎてしまった。
しかし、これから乗車する智頭駅から南側の、私にとって初見である上に、全通前に言われていたところの因美南線は、同じ因美線でも優等列車は一切通らず、一本の快速を含めた普通列車も一日七往復しかない閑散区間である。
一日七往復ということは、一時間に一本も列車がない空白の時が、時刻表には何行もある。
すでにこの区間の鉄道としての社会的役割は数十年前に終えていて、実際に廃止となれば、一時は市町村の議員や役人が苦情を言い、廃止ニュースに群がる鉄道マニアで少々の賑わいを取り戻すのだろうが、実際に廃止となった後では誰も困らないような路線には違いない。
ところが、旅行者としてはこういう路線の方が乗りごたえがある。

出発の15分前に智頭駅に戻ると、JR西日本の車長が短いキハ120系一両の津山行きの車両がやってきた。
乗り込むと、4人掛けのボックス席とロングシートの車内。私はボックス席に座ってエンジン音を聞きながら出発を待つ。
出発直前になると、意外と乗客が乗り込み、車内は10人程度の乗客がいた。ボックス席にはいずれも私と同じような冴えない旅行者風の男性が占拠しており、ボックス席を逃した乗客はロングシートに収まっていた。

2024年2月11日12時54分、津山行きの一両編成のディーゼルカーは時間通りに出発した。
やはり、というか性能が違うのだから仕方ないが、エンジン音のけたたましさは先ほど乗った智頭急行の車両と同じだが、この車両はどうにも加速が頼りない。
それでも、これから峠に向けた緩い上り坂を車両は登っていく。

車窓には、山間部の農村が続く。
古い立派な家屋が目立つが、捨てられて崩れるがままにされている家屋も見られる。
この近辺の田畑は、おそらくはるか昔の1300年前に施行された墾田永年私財法によって開墾されて、それからずっと守られてきたのであろうが、この現代にあって捨てられようとしている。

因美線は並行していた国道53号と別れ、物見トンネルに入る。
花山法皇が鳥取から津山を通って高梁まで移動したとしても、この先は因美線に沿ったルートではなく、現在の国道53号のルートに沿って黒尾峠を越えて奈義を経由して津山に抜けただろう。そちらの方が鳥取から津山へ抜けるメインルートなのだ。
むしろなぜ、因美線が黒尾峠ではなく物見峠ルートを選んだのだろうか。物見峠の方がトンネルが短く済むからだろうか。
因美線は引かれた線路に沿って3077mの物見トンネルを抜けて、古い駅舎の美作河井駅に着いた。

それにしても、この因美南線では頻繁に25km/h制限によって速度を落とす。
山間部は斜面を削り落として作ったトラバースルートに線路を引いているから、あまり高速で走られるのも怖いのだが、ここまで遅いのも、もどかしい。ディズニーランドのウエスタンリバー鉄道みたいだ。
JR西日本によると落石防止のためとのことだが、おそらくこのようなローカル線のために、手間と費用の掛かる保線工事は採算が合わないからできないのだろう。
運動エネルギーは速度の二乗に比例する。50km/hで走るところを25km/hで走れば、経年劣化の要因は他にもあるから単純計算ではいかないだろうが四倍長持ちする。近い将来には廃止となる路線なのだろうが、それを少しでも存続させるためには仕方ない処置なのだろう。

そんな因美線であるが、この車内の乗客は少しずつ増えて、津山駅の直前では20人弱にまで増えた。意外と地元の住民にも使われているのだろう。大きい荷物を持った人も多いのは、連休中の里帰りだろうか。
山間部を抜けて津山盆地の高野駅あたりまで出ると、住宅は近代的になり商店も見えるようになった。終点の津山駅が近くなった。
列車も、これまでの25km/h制限の鬱憤を晴らすように速度を上げた。

14時3分、津山駅着。
次は姫新線の新見行きに乗るつもりだが、二時間近い待ち時間がある。
津山駅で因美線から姫新線を乗り継いで、西へ向かう客など想定していないのだろう。
駅で待つのも癪なので、駅近くにある津山城址に行くことにする。
途中下車をするため、跨線橋を渡って改札に向かう。
改札では、私の前で途中下車の手続きをしていた乗客が、カーボン紙で書かれた手書きの切符を見せていた。これは噂の最長距離切符だろうか。テレビや写真では見たことがあるが、実物の手書き切符を見たのは初めてであった。

駅を出ると小雨が降ってきた。
覚王寺で晴れたのは偶然であったのだろうか。ここにきて神通力は無くなったようだ。
津山城址に通じる今津屋橋を渡る。この橋の下を流れる吉井川は広くて水量が十分にある。今でこそ往時の賑わいは失われたが、農業が主産業だった江戸時代までは、きっと豊かな土地だったのだろう。
今津屋橋を渡ると鶴屋通り商店街なのだが、これも昔はきっと栄えていたのだろうが、今ではその面影を残すだけだ。古着屋やまんじゅう屋、婚礼衣装の商店など営業している店舗もあるが、シャッターを閉めている店の方が多い。
まんじゅう屋に数名の列ができていた。見ると焼き立ての今川焼を売っているようだ。帰りに今川焼を買うのを楽しみに、津山城址に向かった。

津山城址は石垣と再建された備中櫓を残すのみで、あとはまさに城跡であった。しかし、元は小さいながらも山であったろう場所を、山一つ丸ごと城に作り替えたのには恐れ入る。本来であれば山頂部分のみ平らにして必要な建造物を建てればよいだろうに、戦国時代を終えた当時の人たちはスケールが違う。
天守跡から津山市街を一望する。

津山市街は10km四方もない狭い盆地のはずだが、それを狭いと感じるのは関東平野に住んでいる人間の感覚で、こうして見渡すと広い。
これで広いと感じるのだから、日本というのは、つくづく、人間が住める平地の少ない国だとも実感する。
とくに中国地方は広い平野が少ないから、津山は貴重な平野だったのだろう。

一通り城址を見学して降りてきたが、まだ少し時間があったので、歴史民族間に入館する。主に江戸時代、明治時代の資料、展示品があった。花山法皇が生きた平安時代の情報は何もなかった。

姫新線で新見へ

一通りの見学を終えて、津山駅に戻る。小雨がまだ降っている。
帰りにまんじゅうを買おうと思ったが、ドアには本日売り切れの札がかけられ、まんじゅう屋は閉っていた。

津山駅に戻り、改札を通ってホームに出る。次に乗る姫新線は姫路駅と新見駅の158kmを結ぶ路線だが、今はこの津山駅で完全に系統を分離されていて、新見行きの列車はすべてこの津山駅が始発である。

私が乗る列車が折り返しでやってくる。先ほど乗った因美線と同じキハ120系の車両だった。
隣の古い国鉄型のディーゼルカーに乗りたいと、少しだけ思った。

15時57分、津山駅発。
一両のキハ120系車両はエンジン音を唸らせて軽快にはしる。先ほどの因美線と異なり、同じ車両でも平野の盆地を走るため、速度を落とす必要が無いのだろう。
坪井駅を抜けると山間部に入るが、あまり減速はしなかった。
これまでの駅より少し大きな美作落合駅に着く。ここで姫新線は西向きであったものを大きくカーブして北へ進む。

またであるが、花山法皇が高梁を目指したとすると、ここからは姫新線のルートではなく、現代の国道313号線沿いを歩いて高梁に出た可能性が高い。
国道313号線も多和山峠を除けば山間の農村が続くから、当時でも歩いて旅をするのに不自由はなかっただろう。明らかに姫新線のルートは遠回りなのだ。

一両編成の列車は中国勝山駅に到着した。日が沈みかけてすでに薄暗くなっている。こんなローカル線にはと言っては失礼過ぎるが、利用者数に比べて駅舎は大きくて立派だ。一部の姫新線の列車は中国勝山駅で折り返すから、要衝の駅ではある。

かつては「みまさか」というグリーン車付きの急行が大阪駅からこの中国勝山駅まで運行されていたらしい。当時の大阪駅から中国勝山駅までの所要時間は約4時間。現代で同じルートを普通列車を乗り継いで移動すると5時間かかるが、その中には津山駅での乗り継ぎ時間の50分が含まれる。
この「中国勝山」という駅名も、本来であれば旧国名の「美作」を冠するところであるが、何を勘違いしたのか当時の町会議員たちが将来の勝山の発展を信じて中国地方の「中国」を冠したとのことだ。
一時期は湯原温泉や、蒜山高原、大山登山の玄関口として賑わったのかもしれないが、残念ながら、当時の町会議員の願い通りに勝山が発展することは無かったようで、無駄に立派な駅舎が当時の彼らの思いだけを残している。

ここから先、列車は例の25km/h制限に何回も引っかかった。中国勝山駅と新見駅間は日に八往復しかないのだから、こちらも因美線と同じく閑散区間ということで、いつ廃止になってもおかしくないのだろう。しかし、乗客は因美線と同じく20名弱はいる。いずれも旅行者風だ。特に私のような高齢独身者風の男性が目立つ。
私も同じような風貌にはちがいないのだが、高齢独身男性の姿というのは、どうにも陰気で薄暗く花が無い。おまけにそのような人間が一人で鉄道に乗っている姿は、寂しさを通り越して哀れですらある。そのような人間が、何人も閑散区間のローカル線に乗っているのは、枯れ木も山の賑わいとはいうけど、あまりいい絵ではない。特に夕暮れが近づいて、外が暗くなってくると余計に目立つ。朝から移動続きで疲れたのだろうか、そんなどうでもいい感想が出るようになった。

17時42分、新見駅着。
ホームから地下道を通ってトイレに入って所用を済ませると、ホームにはこれまで乗ってきた姫新線と同じ型の車両が、反対方向からもやってきた。芸備線の17時45分着の列車であった。こちらからも、この三連休でローカル線を乗り倒すつもりであろう旅行者が何名か降りてきた。
改札で乗車券に途中下車印を押してもらい、予約してあるホテルに向かう。

ホテルに荷物を置くと、夕食を摂るために街に繰り出す。
繰り出すといっても、大した店も無い。とくによそ者の一人者を受け入れてくれそうな店は少ない。
コンビニ弁当で済まそうとも思ったが、それよりはましだろうと、見覚えのある名前のチェーンの居酒屋に入った。
その居酒屋では一人鍋や馬肉のタタキを注文した。味は良かった。
酒もビールはやめて日本酒を頼んだが悪くなかった。日本酒は冷の生酒を一合、熱燗を二合飲んだ。

飲み過ぎだが、宿泊のホテルはすぐ隣だ。店を出ると、すぐに部屋に戻って眠りについた。

翌日、目が覚めて窓を開けると、新見の街は雪化粧をまとっていた。
夜のうちに雪が降ったらしい。時刻は5時ちょうど。
新見駅6時8分発の普通列車に乗るつもりであったが、外は寒そうでどうにも気が乗らない。そこまで朝早い列車に乗る必要も無いのだが、今日訪れる予定の八幡神社も深耕寺も、駅からかなり歩くため、できれば早めに行動したい。
昨日の酒も残っていて、どうにも気だるい気持ちを残しながらも身支度をして、7時過ぎにホテルをチェックアウトした。

ホテルの出口からちらりと見えた、食堂で朝食を食べている客が恨めしかった。

高梁市 八幡神社

7時24分、播州赤穂行きの伯備線普通列車は新見駅を出発した。
この列車は3時間かけて、伯備線を抜けて岡山駅からさらに先の播州赤穂駅まで行くらしい。播州赤穂駅からは新快速があるので、青春18きっぷ利用者には便利な列車かもしれないが、一般人が普通に使うには時間がかかり過ぎる。

しかし、そんなことはお構いなしで、この車窓の景色は素晴らしかった。
地面も山も雪化粧をまとって、霧が程よく山を隠している。昼には雪も解けて霧も晴れるのだろうから、儚い景色ではあるが、この景色を見れたのだから、この旅は良かったといってよいと思える。

この普通列車は単線の伯備線のなかで最も地位が低いらしく、特急や対向の普通列車の待ち合わせで何度も止まったが、今回ばかりはゆっくり走ってくれるのがありがたい。

8時5分、木野山駅着。
駅舎は真四角のコンクリート造りの素寒貧としたものであった。

木野山駅を出ると、線路沿いの道を歩く。雪が降った夜明けのためか、風が冷たく寒い。山は霧というか雲に覆われている。遮断機も警報器も無い踏切をみつけたので、そこを渡る。

しばらく高梁川ぞいの国道を上流に向かって歩いた後、高梁川にかかる肉谷橋を渡る。

肉谷橋を渡るとそこの地名は肉谷。いったいどういう由来でこのような地名となったかわからないが、この谷沿いにできた集落に沿って山を登る。

しばらく登ると集落が途切れて、森の中を登る林道になる。舗装はされていて、かろうじて乗用車が通れるくらいの道幅はあるが、昨日の雪が残ってい徒歩では滑りやすい。

チェーンスパイクを用意してあるが、わざわざ装着するほどではなかったので、無精でそのまま登る。肉谷から30分ほど登ると、県道302号線と交差する峠まで登った。

峠に出ると、暖かい風を感じた。一気に視界が開けて西側の山々が見える。交差点の看板には、この神原地区の各戸の世帯主と思われる氏名を記した看板がある。どうやらこの地区には個人情報という概念がないらしい。

神原地区を縦断する、二車線で綺麗に舗装された県道302号線に沿って八幡神社へ向かう。神原地区は低山とはいえ、山の稜線沿いに集落を形成している。

通常、山の稜線に人は住まない。
山の稜線では、かろうじて人が生きていく程度の生活用水は得られても、耕作につかうほどの農業用水は得られないからだ。
しかし、この神原は確かに山の稜線に里ができている。今は冬だから休ませているが、斜面を段々に区切られた畑もある。
どうやって水を得ているのか。
水田がないということは、この山中で昔は何を食べて暮らしていたのか。立派な車道ができるまで、学校や病院はどうしていたのか。歩きながらもなかなかに疑問は尽きない。

9時20分頃、八幡神社に到着した。
里の中にある、変哲のない神社ではある。
鳥居を見つけたので潜って境内を目指す。
神社の看板には、花山法皇の西国御幸の折1004年創建とある。事前にわかってはいたのだが、ここで私の989年の花山法皇訪問説は見事に破られたわけだ。

お参りを済ませて、社の扉が開いていたので少しのぞかせてもらうと、明治天皇の写真が飾られていた。花山法皇創建の神社であるから当たり前かもしれないが、この山中にあって皇室への敬慕が強いのだろうか。

神社横の農村生活改善センターなる施設の方へ降りて、記念碑にザックを下ろして少し休息をした。

瑞源山深耕寺

次は深耕寺に向かって来た道を引き返す。
この神原地区の南側は、ゴルフ場に老人ホーム、運動センターに宿泊施設と、現代的な施設で埋められている。
標高は400mほどの低山ではあるが、山の上だというのにますますこの神原という場所がわからない。これらの施設に必要な水はどこから得ているのか。神原の南に流れる井谷渓谷は神原からの豊富な水量に恵まれているのだそうだが、このあたりの水脈はどうなっているのか。
神原にあるゴルフ場はバブル期の昭和60年に設立。おそらく、周辺の施設も同じ時期に作られたと思われる。
それ以前には何があったのだろう。山上で水が豊富で温泉もあるようだから、一般的な農村にしておくのが惜しい場所であるのは、バブル期前から変わらないだろうが、とにかく今は現代的な施設で占められている。

深耕寺はそんな神原地区の山上からは、少し西に下った谷沿いにある。
どうせなら山の上に作ればよいのにと思うが、深耕寺のWebサイトには以下のように記されている。

深耕寺は寛弘三年(1006)の創建。開基は「花山法皇」と語り継がれています。 寺伝によれば、「花山法皇西国巡幸のみぎり当寺を建立。山号を瑞源山・寺号を深耕寺と命名。寺を囲む田畑六町歩、山林六十余町歩を永代供養料として寄進。随行の供七人に爾後の護持を託して帰京された」とあります。花山法皇の発願により設けられたと伝えられる「備中西国三十三ヶ所観音霊場」の第一番(発願)札所にあたり、当時は行き交う巡礼で大変賑わったものと伝えられています。 その後、中世までは、多くの寺院が兵乱、火・災害により栄枯盛衰の歴史を繰り広げてきたと同様に、当深耕寺も兵乱のため二回も火災に遭い、堂宇全焼という不幸に見舞われました。 中世のある時、深耕寺を訪ねられた永祥寺(現井原市)三世・英巌章傑師が、由緒ある当寺の荒廃を惜しまれ、曹洞宗の寺院として再興開山されました。 以来、幾多の変遷を経て現在に至っており、最近では平成18年に深耕寺創建1千年祭記念法要を営みました。

瑞源山深耕寺Webサイト「深耕寺について」

これによれば、今の深耕寺は花山法皇が開基した寺を再興したものであるらしい。であれば、今はゴルフ場となっている山上にあった寺を現在の位置に移した可能性もあるのではなかろうか。

神原を歩いて気付いたのだが、この水資源が豊かな稜線は、比叡山や書写山のような巨大寺院になるポテンシャルを持っている。
花山法皇はこの地に巨大な寺院を築き上げる夢を見たのではなかろうか。
京からは遠いが、岡山、福山、津山が近いから平安時代当時でも、周辺人口は十分にあっただろう。
深耕寺の開創は花山法皇の夢への第一歩だったのだが、深耕寺を開創した1006年の二年後に花山法皇は崩御する。すると、夢半ばでこの世を去ったことになる。
そう思うと、深耕寺が発展せずに荒廃したのは、花山法皇にとってもあの世で忸怩たる思いがあったのではないか。
現代のこの地に、ゴルフ場に運動施設に宿泊施設に老人ホームがある現状に、あの世から見た花山法皇は何を思うだろうか。
自分が作った寺院が発展できなかったことを無念に思うだろうか。
しかし、思えば当時の寺院は若者の修行施設でもあっただろうし、社会に適合できない人間の収容施設でもあれば、レジャー施設の側面もあっただろう。そう考えると、近代的な施設で一部ではあっても当時の寺院の役割を果たしている現代の結果に、存外、満足をしているのかもしれない。

10時15分頃、深耕寺に到着した。
実際に訪れた深耕寺は、山の中には不似合いな立派な寺院であった。
近くで見ると、石垣はセメントで固められているし、建物はどれも立派で新しいし、墓石も古いものは見当たらない。

入口には高い一本杉があるが、これも幹の太さから樹齢はあまり長くないようだ。
現代でこれだけ新しい施設を充実させられるお寺となると、余程立派な檀家を何名も抱えているのだろうか。特に鐘楼の木材が新しく、柱の木目を見れば継ぎ材ではなさそうなので、相当なお金がかかっているはずだ。この鐘楼を遠目から見た際は、金色に光っているようにすら見えた。

あるいは、元々現在のゴルフ場の場所にあったものを、高額で土地を売り払って現在の場所に移転したのだろうか、とも邪推してしまう。
もちろん、これは本当に邪推で、国土地理院で過去の航空写真を見ると、1960年代も現在の位置に深耕寺があるのを確認できるし、ゴルフ場のある土地に民家はほとんどなく、森と段々畑だけがあったようだ。

本堂の前には、5名分程度の下足がおかれている。フォーマルなものではないから、中では法要などではなく座禅会か写経会でも開かれているのだろう。
静かに手を合わせて賽銭箱に賽銭を納める。
観光客向けにお寺の歴史を案内するような看板はない。知った人だけが訪れるお寺なのだろう。

写真を撮り終えると、静かに深耕寺を後にした。

泰立寺薬師院

ほんの3時間ほど前までは霧に覆われた雪景色であった山並みは、太陽が昇ると雪はすっかり解けて春のような景色であった。実際、日差しも暖かかった。

県道302号線に沿って徒歩で山を下り、備前高梁駅を目指す。
この県道は自動車のためのもので、歩道は備え付けられていない。歩道のない道を歩く。
自動車であれば10分程度の道のりであろうが、その道を60分ちかくかけて歩く。
高梁川を越えると正面に備前高梁駅の西口が見えた。備前高梁駅までは商店街になっていたが、やはり往時の賑わいは失われているように見えた。

11時30分頃、備前高梁駅に着いた。
備前高梁駅では、まず岡山駅までの特急の指定席券を購入する。三連休の最終日であるから、自由席は避けたい。指定席は窓際が取れず、通路側の席であった。
あとは、泰立寺薬師院である。

備前高梁駅の東口を出ると、泰立寺薬師院と思われる斜面に連なる寺院群が見えた。距離にして300mほどのすぐ近くであった。
薬師院は花山天皇在位時に花山天皇開創で建立した寺院であるそうだ。当時は有力な寺院には、天皇名義で開創する風習でもあったのだろうか。
新しい村に朝廷の権威を示すためと考えれば、新しく国分寺を建立はせずとも、天皇名義の寺を建てるのは十分にあり得るように思える。

しかし、現代の薬師院は花山法皇より「男はつらいよ」のロケ地であることが売りらしい。「男はつらいよ」の石碑があった。

寺院は綺麗で、高梁の街並みが見渡せる。高梁の街で暮らして、この寺のお墓に納められる人生は幸せなんだろうと、勝手に思った。
備前高梁駅に戻ると、特急の時間まで1時間以上ある。一本早い特急に乗ればよいのかもしれないが、それだと岡山駅で待ちぼうけになる。
三連休最終日の上り新幹線の予約を変えるのは難しい。
備前高梁駅構内の本屋と図書館に併設されたスターバックスで時間を潰した。このスターバックスは店員が5人もいるにもかかわらず、注文に手間取る家族連れがいつまでたっても注文が終わらないのに、別のレジを開かず待たされ続け、おまけにホットコーヒーを切らしていて5分待たされた。

備前高梁駅から岡山駅までは、まもなく引退する国鉄時代に作られた381系電車の特急やくもに乗った。50年前の車両であるが、特急だけあって走り出すと高速で伯備線を駆け抜けた。
しかし、いかんせん古い車両のせいか、加減速の度に連結器から激しい振動が起こり、レールの細かい段差をサスペンションでは和らげられずにガタガタと不快な振動を車内に響かせた。
思えば、この車両の車齢は、私の年齢と同じくらいであったと、引退間際のガタガタ揺れる車内で思い返した。

岡山駅では新幹線の乗換で、一昨日の鳥取駅で購入に苦労した鳥取駅から岡山駅までの乗車券を自動改札機に放り込んで別れを告げた。
彼はこの貧しい旅の、一時の相棒であった。

さいごに

前編で述べた、推測とも言えないような妄想をもとに今回の旅を企画した。

本来は、来月の3月に行こうと思っていたが、今年は花粉の量が多いとのニュースを見て、急遽予定を早めて実行した。

2024年は2月の10日から12日が三連休であったので、これも丁度良かった。
今回の旅程は、鳥取まで飛行機を使わないと、どうしても三日かかるし、鉄道以外の移動が徒歩なので行ける場所が限られる。
花山法皇とは関係ないのだが、できれば鳥取砂丘や、高梁では備前松山城や旧吹屋小学校なども見たかったが、これらを訪問先に加えると、さらにもう一日かかるのであきらめた。
行きたい訪問地をあきらめてでも、なるべく飛行機やレンタカーは使いたくない。
前回の熊野旅行でわかったが、飛行機は訪問地までの距離感がわからなくなってありがたみが無くなるし、レンタカーは訪問地間の移動を運転に集中してしまって移動の感想が薄くなる。
こういう選択をできるのが、一人旅の数少ないメリットだ。

事前に八幡神社の創建年や深耕寺の開創年はわかっていたので、989年から990年あたりに花山法皇がこれらの寺社を通って山口県に向かったというのは、妄想以外の何物でもないし、現地を訪れても新たな発見や証拠が見つからないのはわかっていた。
わかってはいたが実際に訪れてみると、突然雨が止んだり雪景色が見れた感動はあるし、高梁市の神原地区が山の上にある不思議な里だというのもわかったから、実際に現地を訪れてみる経験の貴重さを改めて思い知らされた。

しかし、990年頃に花山法皇が小松市から鞆の浦まで、鳥取や高梁を通って移動したという私の説は、まだしばらくは保持していたい。
花山法皇にまつわる高梁市内の寺社の開創年が1000年以降だとしても、990年頃に出家名であった入覚の名前で、一般の修験者のふりをしてある一時期に潜伏し、後年になって身分を明かして再訪した可能性だってあり得る。
それに、中国地方で他に花山法皇の御幸伝承地に関する情報が出てこないのも、やはり不自然に思えるからだ。

最後に前編の覚王寺の本堂内を撮った心霊写真のような写真を載せて、この記事は終わりにしたい。

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