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雑文 Vol. 6

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文字数〜6,000字程度の雑文集。
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記事一覧

雑文(09)「びよういん」

「長さはどのくらいにしますか?」  指名した女性美容師がそうたずねたから、おれは、「毛先を整えるだけで」と、女性美容師に言った。 「かしこまりました」と、女性美容師は畏って言った。  女性美容師は、カットし出した。チョキチョキと、ハサミを、いや、ザクザクとか、鏡に映るおれの毛を見ながら、毛先を整えていく。 「動かないでください」と、笑いながら女性美容師は言うから、おれは動くまいと我慢し、動かない。  女性美容師が位置を移動するたびに気になるのだ。気になるな、気になるな、って、

雑文(08)「たんぽぽの綿帽子」

 たんぽぽの綿帽子だろう。  河川敷きで、たんぽぽの綿帽子をたくさん見かける季節だから、穏やかな春の風に乗って、綿毛は遠くへ遠くへたんぽぽの種を運んで、不時着したそこでたんぽぽは芽吹くだろう。  自転車のペダルを漕ぐと、たんぽぽの綿帽子が麗らかに、わたしに向かって来て、それがたんぽぽの綿帽子だろう、と、気づくとわたしは、ほっこりした。  ハンドルを右に切って、ト字路を右に曲がると、なだらかな上り坂だったから、サドルから腰を浮かせ、わたしは立ち漕ぎの恰好で、ペダルを漕いだ。  

雑文(07)「わたしは本です」

 本棚の内側に立って、わたしは手に取られるのを待っていた。  お隣さんは、いつからそこに立っているのか、髪の毛はほこりを被って、顔の色は日に黄ばんで、嗅いだら漂うその匂いは黴臭く、わたしよりだいぶ古くなって、そこにいた。  わたしと同じく誰かの手に取ってもらい、パラパラ数ページを試し読んでもらい、好まれてレジに持ってもらうのを、ずっと、わたしより長く、そこで待って来たんだろう。  わたしの前任者はたぶん、誰かの好みに合って、買われたんだろう。あるいは、古くなりすぎて、誰にも買

雑文(06)「プールから上がれない」

「足攣ったらお終いだな」と、足攣ったらお終いそうな表情を伊藤舞花(いとうまいか)に向けて、高部瑞希(たかべみずき)は言った。 「三人共泳ぐのが得意でよかったよ」と、三人共泳ぐのが得意でよかったそうな表情を高部瑞希に向けて、伊藤舞花は言った。  二人の会話に交じらず鈴木真由(すずきまゆ)は会話の始まりから終わりまでずっと上を向いて、二人の会話に興味がない、とは言わずに、二人の会話に興味がなさそうに、鈴木真由は思うのだ。  プールから上がれないのに、わたしはどうしてプールに入った

雑文(05)「ゴールデンウォーク」

 ゴールデンウィークだから、ゴールデンレトリバーのゴールデンは、旅に出た。  ゴールデンレトリバーだから、ゴールデンって名前は安直すぎないかって、ゴールデン自身そう思うんだけど、ペットショップの何度も値下げ、安っぽいチラシ裏紙モロバレの値札が赤いごく太マーキーで何度も修正された、人だけがいい店長さん曰く売れ残りエリアに好奇心か気まぐれか知らないけれど、ひさしくんがとことこ前にやって来て、ガラス越しに目が合って、人だけがいい店長さんから、「最後のチャンスだぞっ」って、念を押され

雑文(04)「禁文令」

 文章の価値を高める、文章を禁じるのがほんとうに最良なんでしょうか、僕はたまに、ふとした瞬間に、たとえば、僕はまあ思うんです。  近ごろでは禁声令っていうんでしょう、発声までなぜか禁じちゃって、いったいなにをしたいのか、誰か教えてほしいんだけど、僕にはわかりません。  文章を禁じて文章は売れたんでしょうか。僕は正直ぜんぜん売れていないと、まあ思うわけです。お国の偉い方たちが、だから庶民の僕があーだこーだ言うのはおかしいのだけれど、言っちゃうとですね、禁文令はあかんと思う、あく

雑文(03)「中学生の宇宙」

 小学生の時から宇宙に興味があったので、宇宙学が学べる本学に入学しました、と、さわやかに笑って、ことし受験して合格した、生徒代表が取材記者の男に笑窪を作って、輝かしい未来の自分像を語って、彼の将来性ある姿はマスメディアで大々的に放映され、お茶の間で視聴した団塊世代の引退世代を乾いた拍手と共に感嘆させた。  全国初の全寮制公立中高一貫男子校は、宇宙学に精通した、優秀な宇宙飛行士、あるいは宇宙機関の職員を育成する目的に巨額の資金を投じて開校した。  がしかし、26年度の春より本学

雑文(02)「兄貴は姉貴で、姉貴は兄貴」

「薄々だけどさ、気付いていたよ」  実弟が、実兄にそう言って、実兄は、驚いた容子で、「驚かないのか」と、実弟の冷ややかな態度に驚いた。 「有名私立大学卒で、スポーツ万能でルックスもいい。なのに四十すぎても今まで誰とも付き合ったことがないなんて弟目線の甘々で見ても有り得ないだろ?」 「そういうもんかな?」 「そういうところだよ」  実兄は、実弟をぼんやり眺める。 「それはね、僕からしたら、友だちに自慢できるいい兄さんだけどさ、兄さんがそれでいいなら僕は全然構わないんだけどさ、兄

雑文(01)「未来指向型リニアモーターカー」

 名古屋に行くのは、名物の手羽先を食べて、酔いたい、というのもあるのだけれど、それだけじゃなかった。  俺が、いや、妻が、妻は窓側の席に座っていて、俺は通路側の席に座っているのだけれど、妻は席に座ってから、未開封でもいい匂いを漂わす崎陽軒のシウマイ弁当に目をくれず、座ってからずっと窓の外の横流しの景色を眺めており、今か今かとその時を、妻と俺はうずうず待っていた。  開通後、中々抽選で選ばれない日々が続いたのだけれど、ようやっと抽選に当たって、その晩俺は妻と喜び合ったのを今も憶