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雑文(13)「ウォータースライダー」

 今思えば、あの笑顔はどこかぎこちなかった。
 目が笑っていなかった。
 口だけ笑って、それは笑っていない目を隠すみたいに、あの笑顔は今思うとやはり、ぎこちなかったと思う。
 係員のスタッフ男性に背中を押されて送り出された私は、押されるがまま送り出させるがまま、受け身だった。今思えば、せめて自発的に出発したかった。
 勢いよくすべり出した勢いのまま、私はたびたびのカーブで少しばかり失速するものの、カーブ終わりの直線で、それは少し降っていたから加速して、勢いに乗って私はすべり落ちていた。
 背中の下を流れる水が私の背中とプラスチックの摩擦を緩和し、私は勢いに任せるがまま、凄まじい勢いに乗って降り落ちていた。
 きっと。
 きっとだが、着水時に私は勢いに反発した水しぶきを受け、派手の水しぶきに包まれたまま水の中に沈み、浮上して顔をたっぷり濡らした水を掌で拭いながら水の中をとろとろ歩き、プールサイドに両手をついてプールサイドに上がり、腰に手を当て、自分が今まで降ってきたウォータースライダーの全景を見上げて、感嘆と共に深いため息を独りはき、爽やかに笑うだろう。
 よくすべって来たもんだ、と。
 私はその光景を何度も頭に浮かべたが、酷使して痛みはじめた腰、背中を摩ることもできずに私は、すべり続いているのだ。
 出口がない。
 あるべき出口がないのだ。
 出口の先にあるべき水しぶきがないのだ。
 私はどれくらいすべり続けているのだろうか。
 
 腰や背中から痛みが消えた。
 怖くて私は気にしたくないが気になる。
 皮膚は擦り破れ、肉が露出、いくらか骨も露出しているかもしれないが、想像したくない。
 あれから私はどれだけすべったか。
 出口の先の水しぶきを求めて私はどれだけすべったか。
 私はすべりながら思うが、それを何度思ったかも憶えていない。それほどに私は思ったのだ。
 なぜ。
 それも何度も思った。
 なぜ私が。
 それも何度も思った。
 こんな目に。
 それも何度も思った。何度も。何度も。
 私が何をしたっていうんだ。
 私が。何を。したって。
 すべり続ける。私の言葉を置き去りにして私はすべっていく。どこまでも。どこまでも。
 すり減っていく。
 私はどこまでも擦り減っていく。

 光だ。
 出口だ。
 待ちに待った、出口の先の水しぶきに私はようやっと襲われるのだ。ようやっと。ようやっと。
 私は笑った。
 それは安堵だった。
 終わるのだ。長かった、長かった、ウォータースライダーの束縛から解放されるのだ。ようやっと、ようやっと。
 笑った。また笑った。
 光だ。
 光が大きく眩しくなる。いよいよだ。いよいよだ。
 出口の先の水しぶき。
 水しぶき、そして水の中へ。沈んで浮上して私は濡れた顔面を掌で拭いながらプールサイドに両手をついてプールサイドに上がり、今まで降ってきたウォータースライダーの全景を眺め、よくすべってきたもんだ、と、爽やかに笑うだろう。
 光だ。
 光に包まれる。
 出口だ。水しぶきだ。

 水しぶきは来なかった。
 出口の先端で私はちょうど擦り切ってしまい、残された私の黒ぶち眼鏡が着水する予定だったプールの静かな水面を黙って眺めるだけだった。

 おしまい

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