見出し画像

雑文(75)「サンバのリズムを知ってるかい」

「なにをしたんですかっ」
 敬語ながらも語気を強めて保護者の女性は電話口に怒鳴った。冷静というか、冷ややかな口調で主催者の女性は電話口に答えた。
「なにをですか。レッスンです」
「あの子は。明日香はですね。昔からダンスが好きな子でね、反抗期だって無かったんです。お母さんお母さんって優しい子でね、勉強だってよくできて、学校の成績だって担任の先生から褒められる、とても真面目な優秀な子なんですよ。明日香を返してください。貴方がたはいったいなにをしたんですかっ」更なる怒声に一瞬主催者の女性は黙ったが、冷静さを取り戻すと淡々と話を続ける。
「ダンスを教えただけです。お母さんが仰るとおり優秀で、クラスの中でも群を抜いて上達し、いまではリーダーをですね、明日香さんにはしてもらっております」
「伝統かなんだか知りませんが、男女差をなくす最近の流行りか知りませんが、明日香は私の娘です。勝手に娘を、私の知らない娘に変えてしまって、怒らない親がどこにいるんですか? 娘を返してください。明日香をですね、返してください。私のよく知る明日香を返してください」
 主催者の女性は言葉を選ぶ。苦情の応対は慣れたものだという感じの慎重さで言葉を選んだ。
「お母さんも晴れ晴れでしょう。見てください。沿道にはギャラリーが凄いでしょ。明日香さんを見に来てるんです」
 保護者の女性はスマホを耳に当てたまま辺りを見渡す。人々が沿道境界に押し寄せ、誰もが左手に構えた、年配であればハンディーカム、若者であればスマホ、の望遠レンズあるいは指紋で汚れた液晶画面に顔を近付け、上下にゆらゆら揺れながら能面みたいな無表情あるいは恵比寿顔みたいな笑い顔を作って、沿道を両側から挟んで群れに群れていた。
「だからなんですかっ」苛々で怒鳴り声が更に大きくなるが、人々は明日香、その他大勢に夢中だから誰も保護者の女性に目を向けない。
「大衆が求めているんです」
「私は求めていないし、ダンスレッスンは娘が好きだから承認しましたが、こんなパレードかフェスティバルか知りませんが、私の可愛い娘を明日香をこんなイベントに出すなんて、なにも認めていませんよ」
「明日香さんが出たいと言ったんです」
「貴方がたがなにかそそのかしたんじゃないんですか? でなければ明日香がこんな」だみ声になる。誰も注目しないが。
「皆んな楽しんでるじゃないですか」
「だから明日香は貴方がたの娘じゃなくて私の娘です。勝手に娘を変えて、貴方がたはいったい何様なんですかっ。いいんですか、そんなことしてっ」
「ダンスレッスンの許可を頂きま」
「イベント参加を認めていません」
 警備員の男性が拡声器を使ってなにやら怒鳴っているが、大衆の歓声にかき消され、声が声でなくなる。保護者の女性の声も大衆の歓声にかき消され、気付けば電話は切れていた。保護者の女性の左前から明日香がやって来る。人々の上下する頭やスマホ、ハンディーカップで明日香の姿は途切れ途切れだが、サンバを踊る明日香が笑顔を人々に向け、ゆったり沿道を進んでいく。
 警備員の男性は拡声器を口に当て、懸命に叫んでいた。が、革靴の足元を滑らせるとそのまま拡声器を握ったまま転んで、地面に倒れた。倒れた警備員の男性に誰も注目せず、人々は情熱的に踊り続ける明日香を凝視し、過ぎる姿を追うようにスマホやハンディーカムを水平に動かしていく。
 溶けた蝋人形みたいに表情を強ばらせた警備員の男性は地面の熱に溶けたみたいに足を滑らせ続けて立てないでいた。
 保護者の女性は主催者の女性の説明に納得できず、激しく踊り続ける、改変された明日香の後ろ姿を目で追うしかできず、中心の心臓がきゅっと縮まり気付けば頬を涙が垂れていたが、人々は変わり果てた明日香の姿を追うだけで誰も保護者の女性が独り泣いている姿に気付かず、保護者の女性は陽気なサンバのリズムに耳を向けながら大衆と同様にゆれず、パレードあるいはフェスティバルの野外会場を後にした。保護者の女性が立ち去ったのを数人の人が気付いたが、賑やかな会場を後にした保護者の女性が気付くことはなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?