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雑文(83)「忘れ鼻」

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「どんな鼻か、忘れてしまって」
 と、私の詰まった、いや、鼻のない不鮮明な声を響かせカウンター越しに、忘れ物センター職員の男に私は、頭を掻いた。
「最近多いんですよねえ」と、悠長に、いや、落ち着いた声を響かせ職員の男は、私を真似るように頭を掻く。
「うとうとして。ちょっときのう、配信動画観てたら夜更かししちゃいまして」
 職員の男は笑って、顔の、ちょうど鼻頭に軽く曲がった指端が触れるか触れないかのギリギリの位置で小さなサイズの合っていない白い手袋を着けた右手を数往復振って、否定する。「違います。忘れ鼻がですよ。ブームなんですかね? 忘れ鼻ばっか届いて、こっちの身にもなって欲しいというか」職務を忘れ、職員の男は鼻腔を膨らませ、愚痴る。が、失言に気付いたか、職員の男は慌てて言い直す。「失礼しました。あなたが悪いって言ったわけじゃなくて、忘れ鼻全般に言ったわけでして」
 そっちでも同じことではないか、と私は言わない。危急は私の鼻を早く元の場所に付けることだから、余計なこと言って職員と揉めて、時間を浪費したくなかった。
「気にしてませんよ。それより」
 職員の男はあっと表情を驚かせると私に背を向け、テーブルの上にある大きな箱を両手で抱えると私に向き直り、カウンターの上に置いた。
「わかりますか? この中にあなたの鼻はありますか?」
 私は箱の中を覗き込んだ。どれもが忘れ鼻だった。特徴のない流行りの鼻で私の鼻と見分けがつかない。額に汗が滲み、口呼吸が荒くなる。正直どれが私の鼻なのかわからない。私がわからないから、職員のこの男がわかるはずもないだろう。
「いやあ、参ったな」箱の中を覗きながら私は正直に言い、職員の男もそれに呼応したか、いや偶然か、「いやあ、参ったな」と鮮明な口調で言った。
「どれも同じならどれを選んでもいいんじゃないでしょうか?」職員の男は投げやりというか、正論を示すようにそう提案した。「存在感の薄い忘れ鼻だ。見慣れたあなたがわからないなら誰が見分けが付くのか。そうじゃありませんか?」
「それは」私は一瞬戸惑ったが言葉を続ける。「そうですね。一生鼻のない息苦しさを想像したら迷ってる暇はないです」
「よかった」職員の男はほっと胸を撫で下ろすように、いや面倒な仕事から解放されてか、笑った。「引いてください」
 引いて、と言いかけたが、職員の男が言いたいことはわかったから私は、箱の中に右手を突っ込んだ。くじを引くみたいに中にある鼻を軽く回して混ぜながら。私はこれだと直感を信じて、指端に触れたその鼻を、鼻の二つの穴を潰すように逆さに摘み、鼻の海の中から引き揚げた。
「それでいいんですね?」職員の男が笑って、たずねる。私は手のひらに置いた鼻を注視したが、無論私の鼻か判別できないが、息苦しさに限界を感じていたから私は、「これでいいです」と、きょうのランチはこれでいいですという軽いノリで選んだ。
「ご利用ありがとうございました。またのご利用がありませんように」洒落っ気を含んだ物言いで職員の男は頭を下げ、私も、「あなたの鼻もよく見れば忘れ鼻ですから紛失にはお気をつけください」と言って笑った。
 慌てて自分の鼻を触った職員の男に背を向けて私は、忘れ物センターを後にした。

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 結論から言うと、私の選んだ鼻は私の鼻ではなかった。私ではない他の誰かの鼻だった。私は選び間違えたのだ。忘れ鼻には違いない存在感の薄い鼻で、鼻を付けた容姿は前と違いを見つけるのは難しい。その鼻の持ち主が街中で私の鼻を見て、それは私の鼻だ、返してくれと、鼻息を荒く、いや、口呼吸荒く、私の後を付き纏うのは考えずらい。
 それほどに見分けが付かない、ぱっと見、私の鼻だった。というか、私の鼻を間違って付けた誰かが自分の鼻を探そうと街中で間違え探しをするとは私は思えない。掴んだ幸運をそんな簡単に手放すとは思えなかった。
 終電でうとうとして車庫に入る直前に慌てて起きて静まった乗降場にとび出ることは滅多になくなったが、私は。代わりに。私の鼻を付けた誰かはうたた寝し、終着駅で駅員に起こされ慌てて乗降場にとび出て、静まった乗降場に呆然と立ち尽くし、帰路の方法を寝惚けた頭を脳みそをフル回転させて考えている、そんな情景が目に前に浮かぶ。
 私は静まった乗降場に降りて、数枚摘み出したティッシュペーパーで鼻頭を覆って、鼻をかんだ。きょうだけで数十回かんだ鼻は真っ赤っかで指端が触れるとヒリヒリと痛い。
 私は歩きはじめた。
 夜更かしして鼻を落とした誰かの、いや、私の鼻が、私の忘れ鼻が、忘れ物センターに向かう私は途中、ダストボックスの中に、乾いた洟が白くこびり付いた鼻を引き千切って捨て、鼻を失った私は忘れ物センターの職員の男に、鼻のない不鮮明な声でこう言うのだ。
「どんな鼻か、忘れてしまって」

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