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雑文(21)「乃坂警部の不可思議な事件簿」

「警部、そこ滑りますから気を付けてください」
 と、大泉が言った。
「被害者は、田中太郎、年齢は三十五で、同僚からの聞き込み調査では、田中さんはとても人に憎まれるような人物ではなかったようですね」
「だが、殺された」
「玄関のドアは施錠されておらず、被害者は浴室で殺されていたのですが、本日届いたAmazonの荷物を盗んで犯人は逃走した模様です。破られたAmazonのダンボール箱が玄関そばに落ちていて、鑑識に回しています」
 乃坂は、腰をおろした。ゴム製なのか、浴室椅子は若干沈んだ。
「物盗りの犯行か。であれば、なぜ被害者は浴室内で殺された? 物盗りであれば、被害者が浴室内にいる間に物を盗って出て行けばいいのに、なぜ犯人は被害者を殺した?」
「そこですね。そこが不可解です。わざわざ被害者を殺す必要なんてなかったんです。それに」
「それに?」乃坂は顔をあげて大泉を見上げた。
「スマートフォンです。スマートフォンが浴室内に落ちていました」
「発信履歴は?」
「携帯電話会社に通話履歴を調べてもらいましたが、死亡時刻付近に誰かに電話をかけた履歴はありませんでした。そもそもなぜ浴室内にスマートフォンが落ちているのか。不可解です」
「うむ」乃坂は唸った。「シャーロックホームズだって、エルキュールポワロだって、お手上げの事件じゃないか」
「それに」
「それに?」乃坂は眉を顰める。
「これです」大泉は足を滑らせる。「なぜ浴室の床にワックスが塗られているのか」
「たしかに、ワックスを塗るならせめてリビングの床だろう。なぜ浴室の床なんだ」
「わかりません。鑑識の話では紛れもなくこれはワックスらしいです。鑑識担当もなぜ浴室の床にワックスがと首を傾げていましたよ」
「難解だ。難解な事件だな」乃坂は座る位置を変えた。どうやら浴室椅子表面にもワックスが塗られているようで滑るのだ。
「被害者は後頭部を強く打ち、即死だったようです。凶器は見つかっておらず、おそらく鈍器で後ろから殴られたかと思いますが、付近の土手などを現在捜査しています」
「仏さんだが、見たよ。ずいぶん穏やかな死に顔じゃないか。普通犯人に襲われたらもっと顔は崩れるんだが」
「きっと被害者男性は達観した方だったんですよ。だから殺される間際も表情を崩さず自分の運命を受け入れたかと」
「なるほどな」乃坂は座ったまま柏を打った。「こんな素晴らしい人物を誰が殺したというのか。ドイルやクリスティだって想像すら付かないだろうね。難解だよ、ほんとうに難解な事件だよ」
「鍵の開いた玄関のとびら、破られたAmazonのダンボール箱、浴室の床に塗られた大量のワックスと、浴室内で亡くなった被害者男性、その近くにあったスマートフォン。凶器は見つからず、被害者男性は誰にも殺される動機のない独身男性、社内では穏やかな人物だと評判で、誰かと揉めた噂もない。たしかに警部が言われますように不可解な事件ですね」大泉はくしゃくしゃな頭髪を掻きむしってさらにくしゃくしゃになった。
「誰も解決できんよ、こんな不可解な事件」
「ではまた、警部の不可思議な事件簿入りですかね?」と、大泉は浴室椅子に座る乃坂を見下ろして訊ねる。乃坂は大泉を見上げて言う。「だろうね。まったくわからん。こんな事件、誰も解決できんよ。推理小説に読み慣れた賢明な読者諸君だって糸口すら掴めんだろうね」乃坂は笑った。
「まったく」大泉も笑った。「お手上げですよ、ほんとう」
「引き上げようか?」
「警部、滑りますから気を付けてくださいね」
「わかってるよ」乃坂は腰をあげた。少し足元が滑ったが、大丈夫だった。
 大泉の肩を借りて浴室を出た乃坂は、やれやれと溜め息を吐き、玄関のたたきで革靴を履き、ドアのノブに手をかけて押そうとした時、逆に転びそうになって廊下に立つ、息の荒い鑑識の男に怒鳴りそうになったが、それよりも早く鑑識の男が口を開け、乃坂は開ける口を失った。
「乃坂警部、ワックス成分を分析したのですが、不可思議ですが、このピークを見てください、なぜワックスに混ざったのか、警部、わかりますか?」
 乃坂は、鑑識の男から受け取った分析シートのピークとピーク予想の化学物質名を注視し、一瞬言葉を失ったが、すぐに言葉を思い出した。
「まったくわからん」
 乃坂は棒立ちし、背後から盗み見た大泉は驚きの表情を浮かべ、前の鑑識の男は途方に暮れていた。

 乃坂警部の不可思議な事件簿
 今回も無事未解決、迷宮入りになり、事件の捜査ファイルは乃坂の分厚い事件簿フォルダー内に綴じられ、それは今回でボリューム5を数えた。

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