記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

「ぽに」「ともだちが来た」

2日続けて異なる舞台を観に行くなんてはじめてだ。時間を融通できたタイミングで観たい作品が渋滞していて運よくチケットを取ることが出来て…いろんな積み重なりがあってその上にこの2日間の贅沢がのっかっている。

1日目はKAATで劇団た組の『ぽに』。

画像1

Aブロック以外はほぼ同じ目線の高さで観る囲み舞台。会場に入ると真ん中に円形の舞台、舞台を囲む4方向に座席が並んでいる。舞台には公園のようなセットが組まれ、砂場のように円周を囲われた舞台の内側に扉の付いた箱や学校の机、おもちゃや毛布が配置してあった。これからここで何が起こるのだろうという期待と夕方のひと気のなくなった公園の、主を失った抜け殻のような薄気味悪さが押し寄せる。

物語のあらすじは――

円佳(23歳 松本穂香)はやりたい事が見つからず、ひとまず海外に行く事を目標として、時給1000円でバイトシッターをしている。好きな人である誠也(24歳 藤原季節)の家に頻繁に寝泊まりしながら、生意気でシッターを奴隷扱いする男児・れん(5歳 平原テツ)の家から最近よく指名をもらっている。
ある日、いつもの様にバイトへ向かうが、業務中に起きた災害によって円佳はれんと避難せざるを得なくなる。しかし避難所は定員で入れず、2人は彷徨う事に。そんな最中、れんはいつも通り横暴で、限界に達した円佳はれんを置き去りにしてしまう。
円佳が誠也の家に帰宅した翌朝、れんは43歳の姿になって訪ねてくる。れんは「ぽに」になって訪ねてくる。

劇団た組HP (https://takumitheater.jp/news/id_272/) より


みんな悪い人ではないんだろうけど、決定的に悪くはないけど「ん?」と思う、男性も女性も。現実もそんなものだよなとは思うけど「ん?」「んん?」「んんん??」と台詞や動きがいちいち引っかかる。
みんなどこかで、いいように扱うことの出来る・依存出来る・搾取出来る・面倒を押し付けることの出来る存在を探し続けている。観ていてちょっと苦しくなる、とどめを刺されるわけじゃないけどなんだか吸い込む酸素がずっと薄いような、切れないナイフをずっと喉元に押し付けられているような気持ちになる。

「ぽに」は「ぽ」だった。ずっと「に」だと思い込んでいた。
「ぽに」は「身体から離れたたましいが化けたもの」とかそんな存在、生きている存在に「憑く」もの。憑かれた人にはお清め(お祓い、だったかな?)が必要で、「ぽに」はだんだんと朽ちていき、全部が朽ち果てる前に本体(身体)を見つけなければ身体を離れて「ぽに」になったたましいは戻らない(おそらくそういうことだったと思う)。5歳のれんが「ぽに」になったら43歳になっている理由はわからなかったけど、登場人物の中で「ぽに」になったれんだけが冷静でフラットで常識的だった。よくわからないままわーっと追い立てられて、円佳はずっと笑って曖昧にごまかしてきたことの一つと向き合って、失って、失って、失う。これまでだって結構散々だったのに、もう、がーーーん、だ。どこかに光がないか何度も考えているけど、光も、救いと感じる杭も、どうにも見当たらない。

衝撃というか、ショックというか、空いた穴がふさがれることなく終わってしまったというか。この感じを楽しめる方も沢山いると思うけど、わずかでいいから光を見せてほしかったと思ってしまう。
薄気味悪さはそこに「意志」がないから。
なんとなく、よくわからないけど、流れで、ノリで。そういう選択をすれば楽かもなと頭をよぎるけどそれを選ぶことはきっとない選択肢ばかりがあえて選択されているようだった。
回ってきたものを自分の意志を介さず次に送る、現実にもそういうことがある。でも何となく都合の悪いそれを若い女性が押し付けられ全て背負わされあれもこれも失っていくのを見るのは、やっぱりつらい。

そうだ、私鬼ごっこ好きじゃなかったもんな、鬼にタッチされないように逃げ続けるもの、誰かを鬼にするべく追いかけ続けるのも、好きじゃなかった。少し息を止めふーと吐き出すことをくりかえしながら劇場を出て、冷たい雨の中削がれたところを埋めたい、何か何か、という思いで最寄り駅まで歩く。

***

『ぽに』の穴にまだ冷たい風が吹き抜けていて、新しい物語と向き合うことが出来るのか、やめておいた方がいいのか。迷っていたけれど、せっかくいい席で観られるチケットがあるし、リボルバー以来の佐助さんの舞台だし、とちょっと勢いをつけて観に行くことを決める。終業30分前から「私今日残業できません」光線を出しきっちり定時で終業して浅草に向かう。

2日目は浅草九劇での『ともだちが来た』。2人芝居だけど、配役は当日コイントス(正確にはうちわトス)で決定するという。

画像2

初めて行った浅草九劇は、昔のライブハウスのよう、狭い階段を上がった2階が入り口で、建物に入るとこれまた狭い廊下が続き突き当りがお手洗い、左手を入ると舞台と客席のあるホールになっている。一段高くなって畳が敷かれている舞台、客席は全部で50席あるかないか位、可動式の座席(平たく言うとパイプ椅子)が間隔をあけ並べられている。畳の舞台の奥にはハンガーにかけられたいろんな色のTシャツがラックに収まっておかれている。セットなのかなぁと想像しながら(幕はないけど)幕が上がる時間を待つ。

物語のあらすじは――

暑い夏の日、〈私〉の前に、突然たずねてきた〈友〉
「俺は、覚えていてほしいんだよ。おまえに。」
蒸し焼きにされそうなある夏の日。
畳の上で部屋着姿のまま床にはいつくばる「私」の前に、高校時代の同級生「友」が現れる。話を聞くと、自転車に乗ってずいぶん遠くから走ってきたという。久しぶりの再会に喜ぶ二人は、じゃれあうように会話を楽しむ。
しかし、ふとしたはずみで出る「友」の言葉は、二人の間には埋めることのできない大きな溝が横たわっていることを気付かせる。
「友」は言う、「俺のこと忘れないでいて欲しいんだよ」二人の長い長い、別れ話が始まる-。

浅草九劇HP(https://asakusa-kokono.com/kyugeki/2021/08/id-9572)より


物語の設定は夏休み、こちらはもう秋も終わって冬に片足を突っ込んでいる11月、舞台の上には畳とうちわだけ。それでも冒頭の佐助さんのうだうだっぷりはそれは見事で、客席は暑くて暇で膨大な時間が覆いかぶさる夏休みの空気に一気に支配された。
奇しくも2日続けて彼の岸と此の岸に隔てられてしまった(『ぽに』は隔てられそうになる)人の話。彼の岸へと渡った「友」の無念はあっても、「私」と「友」の暑い夏の日の様子が描かれる。

くだらないやり取り、昔の回想、真剣勝負。
何度も運ばれてくるけどなかなか「友」の喉を通ることのない麦茶、「あの時」の記憶、「友」の願い。

現実を受け止められず、それでも自分のペースでなんとか消化していこうとしてる姿や、どうしてそれはよくてこれは「気味悪いだろ」なの?と謎の線引きがあったりするところがなんだかいじらしい(春に観た『くれなずめ』と同じにおい)。目の前のことをそのまま、ひっくりかえしたりこねくり回したりせずそのまま捉える「私」のまっすぐさが見える。

「友」は「私」に記念写真を撮ろうと提案する。「私」は心霊写真だろーと茶化すけれど、ちゃんと一緒に映る。母親に、姉に、「私」に、3枚3様の2ショットと、自分にと「私」だけを撮る。「友」の思いとそれを受け止める「私」が見えるようで、二人の表情と仕草がとても心に残る場面だった。

「友」の喪失は確かなことで覆ることのない事実だけど、それでもまたきっと、自転車で何百キロも走ってきたってひょっこり現れて、実のならない柿の木の様子を確認して、畳の蟻は埃を食べるか観察して、剣道の真剣勝負をする、そんな時間が訪れるはず、「友」の願いは叶うはずだと思える。季節は巡って、「私」は剣道が強くなって、だんだんと聞こえていた水の音、あぶくの音は小さくなっていったとしても。

***

ここからはただのミーハー話(感嘆符、多めです)。
ミーハーその1。先日、氷魚くんがインスタにここを訪れていたことをポストしていた。稲葉さんも佐助さんもお友達だし、そういうこともあるかなーと思っていたから、観に来る時間が取れてよかったなぁという気持ちと、同じ日じゃなかったかーという少し(否、大いに)残念な気持ちで投稿を読んだ。普通にこのパイプ椅子のどこかに座って70分過ごしたの…??だとしたら近すぎる、時間の共有の密が過ぎる、隣の人ひっくり返るよ。。きっとこっそり2階に席を作ったりしてるよね、そうだよね、そうに違いない、そうじゃなきゃ……同じ回で観た人羨ましすぎーー!

ミーハーその2。『ともだちが来た』は稲葉友さん、大鶴佐助さん、泉澤祐希さんの3人の俳優のうち2人が「私」か「友」を演じる2人芝居、最終日の2公演以外は「どのペアか」は事前に決まっていて配役は当日その場で決まる。事前にその情報は知っていたけど、配役の決定に観客が関わる、ということは知らなかった。
…そう、私、関わってしまった。配役を決めるうちわトス、表と裏が赤と緑に塗り分けられたうちわを放ってどちらの面が出たら誰がどちらの役を演じるか、というルールを決めるご指名を、目の前の舞台の上の、まだ役に切り替わっていない佐助さんから、直々に、いただいてしまったのだ…!!!ひゃーーー!!!
佐助さんが赤が好きなことは知ってたし、稲葉さんとの組み合わせで「私」をまだ演じてないこともTwitterで見ていた。
「赤なら佐助さんが『私』」、個人的な望みだったけど、その目(色だね)が出なかったらがっかりの空気になってしまうけど、それしかない!頼むよーと願いながら、どこかで幕が開く前にこんな緊張することある?と可笑しくなりながら見守る。竹とんぼを飛ばすように稲葉さんがうちわを放る、うちわが導いた配役は……

「赤!佐助さんが『私』」ーーー!!!

決まった時佐助さんがこちらを見て頷いてくれたの、気のせいだった??私にはそう見えたんだよーー!!もうだめだ、共犯だ(決して犯罪は犯していない)、今日のこの公演の配役引き寄せちゃった。気持ちの温度が下がらないうちに真空パックにして永久保存したい、こんなことってきっともうこの先あるわけないよ…。もともと足りない語彙力がより一層鈍る、なんでも「やばい」で収める気持ち、今ならわかる。

最終日の2公演は配役だけでなく、誰が出演するかも、その場のうちわトスで決まる。うわー、ヒリヒリするーー、3人はどんな気持ちだろう?いつが自分の千穐楽になるかわからないで迎える残りの日々、一体どんな気持ちなんだろう?
きっと前例のない挑戦的な企画なんだけど、いつどうなるかわからないって腹を括る感じはこの1年半で体感済みだったりもするんだろうな。理不尽に振り回された経験をあそびに変換してしまう、なんだか逞しいなぁ。


***

あと1回、独特の緊張感から始まる70分を共有できる。全く違うものが目に映ることになるのか、その日その時間を楽しみに過ごす。
観に行ってよかったな、舞台の上の世界に没入しすぎてマスクに隠れてよだれが垂れてしまいそう、そんな作品と出会えて演じられたその時限りの時間を共有出来たことに満たされる。
外はやっぱり夏休みじゃなかったよとストールを巻きなおして、人が少なくなった浅草を「やっぱり舞台はいいな」と思いながら駅に向かってゆっくり歩く。地に足がついていないような、ほんの少し地面から浮いているような感覚で、ふわふわとしながら。
削がれて満たされた、贅沢な2日間の記録。


この記事が参加している募集

舞台感想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?