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2番目に楽しいこと

友だちって何人いる?って聞かれたらわたしは、きっちり人数を数えてしまう。「高校のときの友だち」「大学のときの友だち」って言わなくても今も「友だち」って言える人。わたしは多分、友だちが結構いる。結構てのは誰かの友だちの数との比較じゃなくて、自分が大事にできる量を超えてる感による「結構」で、わたしは友だちが両手からあふれてる。友だちひとりひとりを大事にする性質によるものかもしれない。

春頃から、友だち付き合いを減らそう、と思い始めた。わたしは友だち付き合いをするととにかく会って遊びたいなと思って、それをそのまま「会おう会おう」と発言して予定を作る。それ自体はとても楽しい。わたしは友だちと会うのが好きだ。好きすぎて、予定を入れすぎてしまう。心から楽しい人としか付き合わないようにしてるから、間違いなく楽しい。わたしは楽しいのがすきだ。友だちと会うと楽しい。出かけると楽しい。電話すると楽しい。本当に楽しすぎて、気づいたら7月も8月も9月も終わった。ありがたいことに小説を掲載してくれるというメディアの担当者さんがいて、わたしは今年の春に小説を書きますと約束した。その原稿がまだできてない。もう秋だ。定期的にご連絡をくれる担当者さんに申し訳ない。焦っているので、これはその宣言のために書いてる。少なくとも11月10日までに原稿を書きあげる、と。あああ、書いてしまった。書いてしまったら本当にするしかない。

友だちといると楽しい。小説を書くより楽しくて、予定も作りやすい。だからわたしは書かないのだ。9月は友だちとの予定があまりなくて、わたしは本職で何日か有給をとって一日中小説を書いた。わざわざ有給をとってまでやる程度には、わたしは小説を書くのが好きだ。でも、友だち付き合いを減らさない限り、これ以上のペースで書ける気がしない。昨日も友だちと急に電話することになって3時間話したし、一昨日は急に友だちが家に来た。どちらも最初の連絡は向こうから来ていて、けれど、おいでよとか、電話しようよとかはわたしが言い出したことで。そこに社交辞令的なものは一切ない。そしてその時間もすごく楽しい。けれど、どこか優先順位を間違えてる気がしてしまう。これが最近の悲しみのひとつ。ひとりになる必要を感じるのに、ずっと街中で騒いでしまうゴリラの気分。街の中は楽しいけれど、祭りが終わったあと、一人暮らしの山にとぼとぼ戻るときにちょびっと不安になるような。何か置いてけぼりにしてるような気になる。

書くことは楽しさより明らかに苦しみが大きい。書きたいことが書けてないとき、それなりに苦しいし落ち込む。自分はなんて駄目なやつだと思う。ただ、大半は苦しいけれど、過去に味わった五感が架空の小説の中に現れるとき、心底楽しい。過去が現在になる瞬間を何度も味わって、勝手に自分が救われてる。その救いがわたしだけのものじゃなくて、誰かにとっても救いになればいいなと思う。だから書いてる。

小説を何より1番に思う自分になる日は来るだろか。そんな日が来たら嬉しくて誇らしくて、きっとものすごくさびしい。さびしいまま、ときおり山を下りて祭りに興じて、そしてまたさびしく生きてけたらいいな、と今は思ってる。

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