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"原作から何かを生み出すこと"の補助線

ある漫画原作とメディア化に置いて痛ましい事件が起こってしまいました。故人の冥福をお祈りすると共に、一刻も早くこうした状況が収まり冷静な議論ができる環境に戻っていくことをお祈りしている一個人です。

実際、ああした原作改変なるものに関しては、兎角これまでのドラマ化やアニメ化によって辛酸を舐めさせられてきたファンのお歴々も一家言を持っておられることと存じます。ある種国民的話題であり、ともすれば実写化自体がもはやミームとして扱われている状況下では、こうした議論が噴出することもやむなしと思います。

一方で、原作者以外にも、作品というのは関係者が無数に存在します。原作者とテレビ局や出版社という小さきものVS大きなもの、という対立構造で十把一絡げに語ることはむつかしく、今回その補助線となるようなものが書けたらと思っております。

脚本家として「原作」を使って


さて、私自身脚本家として、そも俳優として、演出として、主に舞台での演劇に置いて少なくない作品を生み出す作業をしてきました。ただし、脚本はオリジナルのものはなかなか企画が上がらず、「マイナーなゲーム」から意匠を拝借してきたこともあります。その場合はパンフレットにクレジットするレベルで、その存在を隠すことなく脚本に取り込みました。いわゆるインスパイアという使い方で、私個人としてもファンだったゲームを舞台化したようなものでした。脚本家として、そこにパクリと言われる線はあらかじめ排除する必要があると考えたし、何より原作あってこその舞台だったから、その存在を消してしまうのは不可能だと考えたためです。結果自身のやりたい世界観を構築することはでき、ともすれば原作との姉妹作(勝手に)という立ち位置まで押し上げることができたと自負できるのは脚本家として一種のカタルシスがあり、非常に感慨深かったことを思い出します。

他方で、これ自体が原作改変だけしからんと言われれば私がしたことはそれまでの行為かもしれません。しかしながら、じゃあこのマイナーなゲームは誰が知っていたのか、といえばその段階で既に20年も前の作品であり、出演する俳優陣も製作陣も誰一人存在すら知らず、結果私は何十人にも布教して回ったわけですよ。原作はこんなに面白いんだぞと。その結果、その座組では「この作品は面白いが、ゲームシステムが面白い部分もあり、そのまま舞台で再現することはできない」ことや「シナリオに光るものがあり、この部分を増幅して舞台化できないか」というコンセンサスや方向性みたいなのが決まっていったわけです。

こういう掘り起こしという面で、原作をなんとか世に出したい、という制作側のリスペクト精神はしっかりとクレジットするようにしています。

「俳優を使う」こと


そうやって舞台化に向けて動き始めると、まず俳優オーディションがあります。その際、実際受けにくる俳優には限界があるわけですよ。望んだ通りの見た目に合致するような俳優が全て揃うことはなく、ある意味で消去法的に決まる配役もあり、制作側も難儀することになります。結果、登場人物などはそのまま使わず、狂言回しの年齢を下げるとか、あるキャラを分割するとか、役割分担をいじっていくことになります。

嬉しいことに、予期せぬ俳優との出会いは現場を盛り立てます。オーディションで受からなかった人間に別の役をやらせてみるとぴたりとハマったりするのもよくある話で、中には俳優としてのポテンシャルが非常に高いながら脚本に沿ったキャラには当たらず、とはいえ制作側も人間なので「この俳優と仕事をしてみたい」という欲が出てくることがあります。そういった場合に諦めて三行半を突きつけることもあれば、その俳優用に脚本を変更し新しい配役を与えるケースも非常に多いのです。

お分かりの方も多かろうと思いますが、こうやって舞台化やドラマ化、メディア化が始まってしまえば非常に多くの人間の思惑が交差することは避けられません。特に、原作があるものであっても、演じるのが人間であれば、その体格、声、所作、ペルソナに至るまで俳優とキャラクターが全く同じ造形になることはあり得ず、2次元と3次元の間には超えた瞬間に奥行きが発生するのだ、という厳然たる事実を突きつけられることとなります。

先般、大御所の漫画家さんが、自身のドラマ化作品の現場に行ったら、主演俳優に怒鳴りつけられた(から嫌な人間だと思った)、という話を書いておられるのを拝見致しましたが、俳優の立場で普通に考えると、現場で集中してピリピリしている時に今まできたこともない人間に愛想笑いを求められても俳優とて人間なので、タイミングが悪かったのだろうと思わざるを得ません。立場ではなく単純に一個人としてそういったところを包摂できず、箱庭でお人形さん遊びをしたいのであれば、そもそも挨拶に向かったこと自体がナンセンスとという批評は免れないでしょう。

「原作」はどこから回ってくる?


一方で、原作者を通らず先にメディア化が決まってしまい事後承諾、というケースが存在するのも見聞きしています。同じ座組からアニメ制作会社に勤める人間の話によるところは大きいですが、基本的には国民的アニメの外注やジャンプ作品が決まった以外に、自社オリジナルで何か一本描けないだろうかという会議が発生した時に、マイナー作を持ってくるアニメーターは多いそうなんですよ。これは私が先述した脚本を書いた際と同じ理屈でもありますが、やっぱり根底にあるのは作品への愛だと思うんですよ。「私だけが知ってる良作を世に送る手助けがしたい」という気持ちが編成会議に向かい、作品愛を語らせます。勿論アニメ化で全て再現できることは元の作品のポテンシャルによるし、頑張って絵コンテに落とし込もうとも結局そのポテンシャルがないことがわかり企画自体がポシャってしまうなんてことも日常茶飯事です。だからマイナー作なんだぞという世間の指差し確認を受けながらそっと胸にしまいこんだマイナー作、成仏してくれ。

で、その殻を破って大成しそうな作品はこの辺りで許諾を得にいくこととなります。原作者が寝耳に水なアニメ化やドラマ化は、まあまあの割合でこうした「制作内部にいるファンの推し行動」が結実していると行っても良いでしょう。ただ、その許諾交渉に出版社が噛んでしまっているので、結局ファンと原作者の間には一方通行の愛しか存在しないことは悲しいことです。特に、制作側に回ると守秘義務がついて回るため、一個人の力ではどうすることもできないという状況はある種今回の事件の初めの不幸な第一歩となったようにも思います。

演じる側の苦悩と成長譚


翻って、俳優として脚本を演じる際にも、やはり演じにくさや考えのまとまらなさがつきまとう配役というのもよくあることです。これはメインキャラ・サブキャラ問わず起こることであり、そんな時に原作を手にとっても俳優としては訳がわからないままというケースは多いんですよ。これは、自身の価値観や読解力、身体的特徴やペルソナとのミスマッチもそうである一方、実は原作でも内的な描写はほとんどない作品だったりするケースが大半です。書いてないことなんかできるかよ。

とはいえ、役者としてもせっかく貰った仕事を降りるわけにはいかず、もし降りたとてまた次のオーディションまでのメンタルも貯金もないわけです。キャスティングされた段階で泥舟だとしてもしがみ付かざるを得ないのは特に零細俳優あるあるであり、こればっかりはキャスティングや制作側の問題が多分にしてあるので、あんまり責めないであげてほしいなと思います。ブラックな職場なんですよ俳優って。

そうした限界状態(という制作側のミスキャストや丸投げ)の中で、花開く俳優というのがいます。そうした原作にないことをアドリブでやってのけたり、ミッシングリンクを自身のキャラクター性で埋めてしまう名優や怪優という存在ですね。これも原作を基点としていろんな人間が関わったことによる副次的な効果の代表的なものであり、こうした俳優や制作側のグルーブ感(いわゆる"ノリ")の中で生み出される作品というものは世の中に数多あるのです。

一つの作品を生み出すのにいろんな人が関わっているんだよ、というのは、ともすればスポンサーやテレビ局といった大きな力を想像しがちですが、現場から見るとそうしたお金の源泉という人間は目の上のたんこぶでしかなく、実際にはなもなき一個人の行動の積み重ねが舞台を動かしています。その裏では唇を噛む毎日を送っている制作会社や俳優陣は非常に多かろうと思います。生まれてから照明やってて何が悪いんだよ文句あるのかという反骨心は常に持っておきたい。

"原作通り"?


そしてこれが重要な補助線ですが、こうした人間たちを使って完璧なお人形さん遊びはできない訳ですよ。それは、なぜなら彼らは人間だから、という理由に他なりません。原作通りに全く同じようにやることはどんな媒体でも不可能であり、むしろ世の中はその不可能さ、不確定さを楽しんだり、誰かに任せることで1が100になっていく経験を素晴らしいものと捉え、是認し、賞賛する傾向にすらあります。自分自身でもそうですが、人間って関わりの中で変わる生き物じゃないですか。他者の中で一歩も動かずに1を1として持ち続けるというのは不可能とまでは言わずとも大変な胆力を必要とすることであり、それが作品のオリジンを守る徹底した保守的な価値観であれば、究極的には発表しないことも大事だよなあと思うわけです。

私の好きな原作つきドラマを思い返すと一つに「孤独のグルメ」シリーズがあります。今では原作者の久住さんが、劇中で吾郎(松重豊)が行った店をドラマ終了後のおまけコーナーにて再来訪して酒を飲む、という吉田類2.0みたいなのがすっかり様式美となり、現場と原作がお互いに良好な関係を続けている非常に好意的な例かと思います。孤独のグルメは作画担当が亡くなっておられるため、今ではある種ドラマ版が漫画版を汲む次回作という流れといっても良いかもしれません。コロナ禍編とか劇中にテレ東の番組が出てくるとか結構時事ネタやメタネタも豊富ですしね。

誰かに見てもらいたいのは当たり前


折角作った作品を誰かに見てもらいたいというのは人間の当たり前の感覚であり、それは否定されるものではありません。他方で、見てもらった段階で賞賛だけが飛んでくるほど甘くはないのもこの世の確固たる道理と言えます。公開した段階であらゆる批判も是認せねばならないのはインターネットも現実も変わらないものであり、ある種プリミティブな、それでいて最低で最高の世の中というのと自意識をどうすり合わせていくかをクリエイターは考える必要があります。SNSでぽんぽん投稿できるようになった現在では特に。

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