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エージェンシー概念から「宿題」を考える


1 エージェンシーとは

エージェンシー(Student agency)という概念がある。
OECDによる、2030年の世界を生き抜くための教育についての検討会議「Education2030」の成果である「ラーニング・コンパス」(「学習枠組み」)の中核的概念としてよく知られている。

その意味するところを白井俊氏の『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来 ―エージェンシー、資質・能力とカリキュラム―』(ミネルヴァ書房,2020)から簡単にまとめてみる。

・エージェンシーとは、「変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力」として定義されている。
・ラーニング・コンパスの中核的概念として位置付けられている理由は、よりVUCAとなる未来において、「私たちが実現したい未来」を実際に実現していくために、エージェンシーが必要だからである。
・すなわち、「私たちが実現したい未来」を実現していくためには、生徒が、教師から指示されたことをこなすだけであったり、労働者が企業から求められるスキルを身につけていったりするだけでは足りないのだ。自分たちが実現したい未来を、自分で考えて、目標を設定し、そのために必要な変化を実現するために行動に移していくことが、重要なのだ。
・エージェンシーを育むことは、家族や仲間、教師との時間をかけた相互のやりとりを含む相関的な「プロセス」であり、一生涯を通じて継続し、また発達していく「目標」概念である。
・エージェンシーの概念自体は、生徒に限られたものではなく、教師や親を初めとして、大人についても観念されるものである。

2 エージェンシーを育むことを宿題の目的にするべきか

これまで4回に渡って宿題について述べてきたことを、このエージェンシーという概念によって捉え直してみたい。

とは言っても、実は既に、エージェンシー概念を用いた説明をしていた。
宿題の形態の一つとして挙げた「子供が自分で取り組む内容を考えて決める『自主的・主体的』な宿題」とは、エージェンシー概念に基づくものである。
お気づきだった方も多かっただろう。

そして、エージェンシーを育むことを宿題の目的にするべきではないかと、反論のあった方もいらっしゃっただろう。

私は、宿題の目的は、この二つとしてきた。

A 学校での学習が不十分なので、その補充のため。
B 家庭においても進んで机に向かう学習習慣を身に付けたり強化したりするため。

そして、家庭において学習を計画的に進める力・自分で調整する力を育むことを目的とした場合も、それが非認知能力の一つであることから、Bに含めてしまった。

また、「子供が自分で取り組む内容を考えて決める『自主的・主体的』な宿題」=「自主勉強の日」は、週に一回程度の割合にとどめていたこともお伝えした。

なぜ、エージェンシーを育むことを目的とした宿題を前面に押し出さないのか。

それは、これまでの実践を通して、そうした宿題が毎日続いた時に、それを負担に感じる子供・保護者が少なからず存在したからである。

ご承知のように、エージェンシーという概念がなかった時代から、自ら学ぶ子供を育てることは教育の主要な目標とされてきた。
だから、宿題においても「自主的・主体的」な学びの力を育もうとする取組は行われていた。

だが、その結果を振り返ると、すべての子供がそのねらいを理解していたわけではなく、理解をしていたとしても常に実行に移せていたわけではなかった。
また、すべての保護者が、そのねらいに理解を示したり賛同したりしたわけでもなかった。

「自主的・主体的」な宿題に<強制力>を感じたり、宿題という学習の<孤立化>を招いたりしている姿が見られたのである。

そうした経緯を踏まえて、私は、「学校の学びから宿題へ」「宿題から学校の学び」という方法論を取るようになった。
この方法は、以前述べたとおりである。

そして、エージェンシーを育む主要な舞台を学校での学習場面とし、宿題の場では控えるようにしたのである。

3 「地域から宿題へ」「宿題から地域へ」という方法

ただ、上記の白井(2020)に見られるように、エージェンシーは教師との関わりだけで育まれるものではなく、社会全体を実践の場とするものであることから、「学校の学びから宿題へ」「宿題から学校の学び」という方法だけでなく、「地域から宿題へ」「宿題から地域へ」という方法もあると、私は考えてきた。

例えば、地域社会で行われる「清掃活動」や「防災訓練」に参加することを「宿題」として、子供が選択・実行するという方法もある。
エージェンシーの概念は広く、それが発揮される文脈には、「市民としての地域貢献」も含まれるのだ。

もちろん実践においては、学校での学習で子供の背中を押すことが必要な場合もある。

以前私は、国語で、地震から自他の命を守ることをテーマにした単元を実施した。
その中で、地域の連合町内会長の方が児童・生徒に地域の防災訓練への参加を呼び掛けている事実を学習資料として用いた。
その結果、授業の数日後に行われた地域防災訓練に私の学級から複数の子供が参加をしたということがあった。

ただし、先述のように、様々な考え方の保護者がいらっしゃることを忘れてはいけない。
上記の例では、私は子供たちに地域防災訓練への参加を一言も呼び掛けていない。学習を通して子供が参加を判断したのである。
だが、こうした場合、教師が、「できたら参加しよう」と投げ掛けることもある。
そしてその言葉が、子供を通じて保護者に「先生が参加するように言った」と伝わってしまう場合が得てしてあるのが、現場である。
子供を間に挟んで、教師と保護者のトラブルに発展することも少なくない。保護者からすれば、「余計なお世話」という場合もあるのだ。

「子供の『自主的・主体的』な力を育む宿題」は、「余計なお世話」という受け止め方と同様である。

4 「責任」というエージェンシーに潜む「危うさ」

その意味で、「エージェンシー」という概念は、まだまだ広く曖昧で、その国や地域の文化や制度、経済状況などに左右されやすいものだと言えそうだ。

だが、私はそのこととは別の理由で、この「エージェンシー」に危うさを感じている。

確かに今、人類は未来の予測が極めて困難な時代に突入していると思う。
そして、そういう時代を生きていく人間は、エージェントになる必要があるだろう。

しかし、エージェンシー概念において重視されている「責任」に対して、私は、福祉・人権との関係において、また、その「責任」概念の「転用」や転嫁という視点において、<無責任さ>を感じてしまうのである。

白井(2020,上掲書,p.80)は、次のように言う。

エージェンシーの概念においては、「責任(responsibility)」の意識が重視されている。すなわち、生徒が、自ら目標を設定して、それを実現することは大切であるが、そのことは、単に自分たちの欲求を実現することではない。生徒が、その属する社会に対して責任を負うこと、また、そのことを自覚していることが、エージェンシー概念の基盤にある。そのためには、自らの目的や行動が、社会に対してどのように受け止められるのかを考えたり、振り返ったりすることが必要になる。

一見、社会に対する責任ある主張や行動を求める極めて妥当な考え方のように思える。

では、「社会的弱者」の立場の人にとってはどうだろう。
「社会に対する責任」は、「自己責任」へと容易に横滑りする。
自己の行動に責任を求められても、それが果たせない立場の人にとっては、本来得られるはずの福祉による支援・救済が、「自己責任」の名の下に切り捨てられる恐れがあるのではないか。
あるいは、国家の利益を守るための「責任」を果たすという論理によって、子供に少年兵として戦闘に加わることを余儀なくさせる格好の口実として使われるかもしれない。

キャンセルカルチャーもまた、エージェントへの過剰な「責任」の要求が引き起こしている事態であると捉えることもできる。

また、所属する社会において妥当な方法でその変化や改革を求める行動を起こしたにもかかわらず、「体制側」からの不当な誹謗・中傷を浴びなくてはならないという「責任」へと「転用」されてしまう場合も起こり得る。
例えば、グレタ・トゥーンベリさんの地球温暖化対策の強化を各国首脳に求める抗議活動が、大国の指導者から「発達障害」という不穏当で筋違いな批判を受けたことは、記憶に新しい。

そして、例えばその地球温暖化問題の解決が、次の世代の責任であるとしてしまうような「責任」の転嫁が、現実に行われていないか。
国家的・地球的規模の問題を少しでも改善しようとする子供たちは、大人世代の残したツケを払う責任を負ってしまっている。

私たちは、エージェンシーについて、「合理的な責任」といった観点から一層の議論を深めるべきではないのだろうか。

白井(2020,上掲書,p.81)には、日本財団がアジア、アメリカ、ヨーロッパの9か国で行った「18歳意識調査の結果」が示されている。

それによると、<自分で国や社会を変えられると思う>や<自分は責任がある社会の一員だと思う>の質問項目に対して、「はい」と答えた日本の若者の割合が極端に低く、「日本の教育におけるエージェンシーの弱さが、データからも示唆されているように見える」という。

確かにこの調査結果から、日本の教育を社会に開いていくものにする必要性を読み取ることができそうだ。

けれども、もしこの数値が、上述のエージェンシー概念における「責任」論についての問題点を日本の若者たちがリアルに感じ取った結果なのだとしたら、それは、エージェントになることへの忌避感の表れであるとも考えられる。

だとしたら、それは、「大人社会」への糾弾に他ならないだろう。