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テクストに書かれていないことを問うてはいけないのか

「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」という発問の是非

かつて日本の国語教育では、「テクストに書かれていないことを子供に問うてはいけない」としばしば言われていました。
今から30年以上前の話です。

では、なぜ「書かれていないことを聞いてはいけない」のでしょうか。
その理由は、「子供が答えられないからだ」というものでした。

典型的な例として、椋鳩十の「大造じいさんとガン」における大造が銃を下ろす場面が挙げられます。
ガンの頭領と思しき「残雪」を獲ることに執念を燃やしていたはずの大造が、決定的な好機であるにもかかわらず、狙いを定めていたはずの猟銃を下ろしてしまうという場面があるのです。
この箇所は、「大造じいさんとガン」が定番教材であることから、教育関係者でなくても、幅広い世代の方の記憶に残っているのではないでしょうか。

そこは、次のように叙述されています(令和2年度版小学校「国語5 銀河」光村図書)。

大造じいさんは、ぐっとじゅうをかたに当て、残雪をねらいました。が、なんと思ったのか、再びじゅうを下ろしてしまいました。

大造が銃を下ろした理由は書かれておらず、ただ、「なんと思ったのか」とあるだけです。

そしてその後、大造を見ていた語り手はすぐに大造から離れ、視点を残雪に移動させます。

 残雪の目には、人間もハヤブサもありませんでした。ただ救わねばならぬ仲間のすがたがあるだけでした。

「これでは大造の気持ちが読み取れない。ゆえにそれを問うてはいけない」というのが当時の考え方でした。

しかし、本当にここで、「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と教師は発問をしてはいけないのでしょうか。

イーザーの「空白」理論を出すまでもなく、書かれていないことを想像することは、読書の楽しみの一つではないのでしょうか。

石原千秋氏は、この場面で大造の心情を問うことに無理があるという考えは、次の三つの意味で間違っていると述べています(『国語教科書の思想』,ちくま新書,2005,pp.136-137)。

まず、「そもそもリアリズム小説は、『書いていないこと』を読むことを楽しむ芸術」であるから。

第二に、これが国語教材であるから。「教室は『書いていない』気持ちを読む空間なのだ」。

第三に、国語の教科書構成の点から。「少なくとも光村図書の小学生用国語教科書は、「動物との交感」をテーマの中心に据えて」おり、「この構成の中では、大造じいさんが「残雪」の勇気に感動したのでなければならない」からであると言います。

教科書の構成テーマという文脈からも子供の読みが導けるという外在的な批評による指摘は、教科書教材としてテクストを解釈することの意味を考える上で大変刺激的ですが、少なくとも子供は様々な文脈において「自由」にテクストを解釈することができるのであり、「この場面はそんなことを考えてはいけない」などという規制を受ける正当な理由は存在しないと言えることは確かです。

「クラムボン」とは何かを聞くことも無意味なのか

それにもかかわらず、現在においても、次のような発言を聞くことがありました。

「『クラムボンとは何か』などと答えの出ないことを聞いても仕方がない。」

宮沢賢治の「やまなし」を教材とした授業研究の場における、あるベテラン教師の意見でした。

もちろん、子供たちが適当に想像を述べるだけならば、それは確かに意味がないでしょう。
国語教材として読むということは、その発問によって子供に何らかの資質・能力を育むことが求められるからです。

では、「クラムボンとは何か」という発問は、どうでしょうか。

その答えを考え、その考えることを楽しむ上で、子供たちが根拠にすることのできる語句や文、また文脈がテクスト内にいくつも存在しています。

例えば、かつての私の学級では、「『あわ』という言葉が書いてあるから、きっと泡のことだ。『死んだ』とは泡がはぜたことを言っているのだろう」と読む子がいました。

「『クラムボン』という音の響きがプランクトンに近い。だから、プランクトンのことだ」と言う子もいました。

幼いかにの兄弟のやり取りであることから、「まだかにたちは幼いから、感じたことを適当な言葉を使って表しているのではないか」と、「クラムボン」が幼児語であることを指摘した子さえいました。

つまり、根拠を探し、それに理由付けをして解釈をするという読みを子供から引き出すことができるのです。

また、「クラムボンとは何か」という発問は、「なぜ賢治はこのような造語を考え、用いる必要があったのか」を考ええいくことにも繋がります。他の賢治作品も含めて読み解いていく鍵の一つになるはずです。

ある学級では、この1時間の学習によって、子供たちの根拠に基づいて読む姿勢が大きく伸びたと聞きました。

求められる反省的実践

それほどの教育効果がある発問でありながら、「『クラムボンとは何か』を聞いても仕方がない」と、教師が考えてしまいがちなのはなぜでしょうか。

本来なら教師としての経験を積みベテランと呼ばれる教師ほど、こうした発問のもつ価値に気付いていると思われがちですが、どうもそうではないようです。

ドナルド・ショーンによれば、熟達化が進むことで視野の偏狭をもたらす可能性があるといいます。偏狭さと頑固さにより自分の知っていることを「過剰学習」してしまうのだというのです(『専門家の知恵 反省的実践家は行為しながら考える』佐藤学・秋田喜代美訳 ゆみる出版,2001)。

「答えの出ないことを問うても仕方がない」と言う時、その教師は、「子供が混乱することなく『正しい読み』『正解』にたどり着く授業が望ましい」という「実践知」にとらわれているのかもしれません。

国語教師は、自分がどんな読み方・読ませ方を求めているのか、目的や指導方法が前提としている教育観は何かといったことについて省察することの必要性が、このことからもわかります。

しかしそのように考えると、逆に、「テクストに書かれていないことを問うことは間違いではない」という実践知ばかりを「過剰学習」してしまう危険性もあります。

ここで問いを初めに戻します。

「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と教師は発問することは、間違っていないことはわかりました。
では、ただこの発問をすれば、子供に確かな資質・能力を育むことができるのでしょうか。
発問をするだけで、果たして十分だと言えるのでしょうか。

次回の「リフレク帳152」でそのことを考えてみたいと思います。

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