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70年代のストリートで撮られたヒップホップDIYカンフー映画『THE DEADLY ART OF SURVIVAL 殺人的護身術』は創ることの愛に溢れた大傑作

70 年代は黒人文化のカンブリア大爆発と言っても過言ではないだろう。白人ヒーローしかいなかった映画界ではブラックスプロイテーションが黒人ヒーローの到来を告げた。また、ニューヨークのストリートはグラフィティアートで彩られ、クールハークのDJは人々を熱狂させ、若者たちはブレイクダンスした。そう、HIPHOPの誕生である。
一方、70年代の黒人の若者たちを熱狂させた映画がある。それは遠い地、香港で作られたカンフー映画だ。
黒人文化がまさに大きな発展を遂げようとするその最中に挟み込まれたそれは、彼らの思想に大きな影響を与えた。それは、現代のHIPHOPシーンの最先端を行くケンドリック・ラマーがカンフー・ケニーを自称してSZAとカンフーしていることからも明らかだ(ブラック・カルチャーとカンフー映画の関係性はNetflixドキュメンタリー『鉄拳とジャンプキック』を参照)。

そんな70年代。まさにHIPHOPが産声を上げようとしているその時代。
ニューヨークのブルックリンで、近所の兄ちゃんたちが集まって完成させたカンフー映画がある。
それがネイサン・イングラム主演のカンフー映画『THE DEADLY ART OF SURVIVAL 殺人的護身術』だ。
ニューヨークのチャイナタウン出身であるネイサン・イングラムは地元の悪名高い中国系ギャング「ゴースト・シャドウ」の元メンバーであり、バイカーギャング「ブラック・ファルコン」のメンバーを素手でシメたことからブラック・ブルース・リーと呼ばれ、地元からの信頼も厚い高名な武術家である。彼は、後にヒップホップ・カルチャーの聖典であり、ヒップホップを世界に知らしめた『ワイルド・スタイル』を撮ることになるチャーリー・エーハンにある一種の確信を持ってこう語りかけた。「俺で映画を撮ろう」と。

はっきり言う。『殺人的護身術』の完成度はそのまんま「近所の兄ちゃんたちが集まって完成させた映画」だ。ストーリーは行き当たりばったりであり。カメラワークは最悪。ネイサン・イングラムのカンフーは見事なものだが、それを十全に撮り切れているとは言えない。しかし、それでも『殺人的護身術』は一見の価値がある。なぜならば、それはカンフー映画と黒人文化への愛に溢れたDIY作品であり、まさにヒップホップが生まれようとする70年代のニューヨークをそのまま切り取った歴史証言的大傑作だからだ。
当時の熱狂をそのままフィルムに収めたこの作品は劇映画の興奮を伴いながらドキュメンタリー映画の感動を持つ。
確かに面白い作品ではないかもしれないが、それでも拙い創意工夫に満ちた一見の価値がある作品として、ここに紹介したい。

映画『殺人的護身術』はニューヨークのブルックリンに存在する二つのカンフー道場の対立を描いた作品だ。ハンサム・ハリー率いるディスコ道場はカンフーを教えディスコのチケットを生徒に売りつけるだけではなく、瞑想する生徒に大麻の煙を吹きかけ、ドラッグのパッケージングを強いていた。
ディスコ道場によるストリートの腐敗を危惧したネイサンは対抗してカンフー道場を開く。
道場間の対立は、まさに『キングボクサー/大逆転』などを想起させるようなカンフー映画の王道である。さらにはストリートでのドラッグの蔓延を描いており、これは『断罪のカンフーマスター』に近い。
『殺人的護身術』はストリートの現状をカンフー映画に見出すことで、カンフー映画でありながらストリートのリアルを描くブラック・ムービーであることに成功している。

まず、映画の冒頭はこうだ。黒い背景を背に、主役のネイサン・イングラムがカンフー演武をはじめる。
これはジャッキー・チェンの『蛇拳』や、ラウ・カーリョンの『秘技・十八武芸拳法』などに見られるカンフー映画の王道的演出だ。
映画の主題がいつまでも不明な映画ほど苦痛なものはないが、カンフー映画は冒頭からいきなりカンフーをするので、それがカンフー映画であるとわかる。
また、同時にその作品のアクションの方向性や主演の身体能力の品定め的な意味を持ち、動きが凄ければ凄いほど観客の心を初手でバッチリつかむ効果がある。
世界的に名の知れたオール・タイム・アクション・レジェンドであるジャッキーもまた、売れるようになってきっかけであり、カンフーコメディというジャンルを世界に知らしめた『蛇拳』の冒頭で切れ味の鋭い演武シーンを入れている。
これによって観客は「この映画はコメディだけど、カンフーはマジなんだ」ということが知れる。

同じように『殺人的護身術』でネイサン・イングラムが演武をすることでそれがカンフー映画であることを明示し、同時にネイサン・イングラムのカンフーがリアルであることを描写している。
もしこれでネイサン・イングラムが演武せず、ブルックリン橋を渋い顔で歩くオープニングだったら、誰もそれをカンフー映画とは思わないし、観客の心を掴むのに失敗していただろう。

ネイサン・イングラムはストリートでは名の知れた格闘家だが、世界的には無名と言っても差し支えが無いはずだ。
無名である彼が、無名だったジャッキー・チェンと同様に冒頭に演武を披露したのは、間違いなく同じ意図を持っていたはずだ。
それは、「自分のことを知らない観客も楽しませてやる」という心意気だ。
もちろん、それはプロとして前提にあるべき心構えだが、そもそも『殺人的護身術』は「近所の兄ちゃんたちが集まって撮った映画」だ。
それでいながら内輪ノリの映像にならず、未熟ながらも大衆に向けたエンターテインメント作品としてギリギリに成立している。それはネイサン・イングラムとチャーリー・エーハンにそういった心意気があったからだと言える。
冒頭に演武持ってくる演出は、カンフー映画として当たり前のことをしているに過ぎないが、ストリートで撮られた『殺人的護身術』においてはそういった心意気を映し出してくれる重要な演出だ。

しかし『殺人的護身術』はただのカンフー映画ではない。DIYカンフー映画だ。

演武を続けるネイサン・イングラムは突如動きを止め、「今気づいた!」と言わんばかりにカメラの方を見る。「俺の名前はネイサン・イングラム」そして演武を続ける。エイッエイーッ!再びカメラを見る。「この映画のタイトルは『殺人的護身術』」演武。セイッセイッ!カメラを見て、「監督と脚本はチャーリー・エーハン」そしてカメラに向かって力強く拳を突きつける。セイィーッ!
このオープニングに500点をあげたい。
カンフー映画を踏襲した演武に、主役がカメラに向かって映画のタイトルとキャストスタッフを読み上げるという斬新さ。王道をやりつつ新しいことに挑戦する創意工夫に満ちたオープニングだ。
実際にはオープニングタイトルを出す予算が無い故の苦肉の手段に違いないが、それでもお見事もしろさに昇華されている。
ちなみにこの時、ネイサン・イングラムは演武をしながら「コォォッ!」という喉を絞るような特徴的な呼吸法を披露している。勘のいい者はお気づきだろうが、これは『激突!殺人拳』で千葉真一が見せる殺人拳の呼吸だ。付け加えて言えば演武の動きも完全に殺人拳だ。
つまり彼が扱う武術は空手ということになるが、それで本作がカンフー映画ではないと決めつけるのは野暮だし、MEME的にカンフー映画であることは間違いない。

オープニングが終わると、しばらくはストリートのややこしい揉め事が展開される。カンフーは鳴りを潜め、やや退屈なシーンが続くが70年代のニューヨークのあり様をこれでもかというくらい堪能できる。
色彩豊かなグラフィティに、敬虔なる信仰の根付く教会のミサ。少年たちはゴムボールを壁にぶつけて遊び、プロジェクト(公営住宅)の一室にはブルース・リーのポスターが貼られている。
町ゆく人々の多くはエキストラでなく、中にはカメラに目線を向けている人もおり、演技が介入していないシーンはまるでホームビデオだ。
その中で特に気に入っているのが教会のシーンだ。
物語に一切関係なく挿入される映像なのだが、そこでは一人の女性がひたすら「主よ、愚かな我らをお救い下さい」と懺悔と祈りを捧げている。
生きることの苦しみを受け入れつつ、心からの願いを捧げるような表情は明らかに演技ではなく、本物の信仰がそこにあった。

別にリアルがフィクションに勝るというわけではない。カンフー映画もリアリティではなくリアルを目指して撮ったアクションや、本物の格闘家が出てくるアクションは相当うまくやらない限り大体地味で面白みのないものになる。
だがしかし、70年代。ニューヨークが特に悲惨だった時期であり、アパートの大家が保険金目当てでギャングにアパートを放火させてた時代に、確かにそこに生きた人々の信仰があり、全くフィルターの無い状態で見せてくれるその映像は真に迫るものがあった。

とはいえ、ただリアルを求めるだけならVICEのドキュメンタリーを見ればいい話であり、それをわざわざカンフー映画に求める必要はない。確かに予算の都合で偶発的に生まれたリアルは存在するが、あくまで『殺人的護身術』はカンフー映画であり、フィクションの存在するエンターテインメントだ。
物語の中盤、カンフー道場を立ち上げたネイサンはハンサム・ハリーの雇った忍者に襲われることになる。これぞまさにフィクショナルでカンフー映画的展開だ。
もちろん、70年代のニューヨークに忍者がいたという可能性を切り捨てることはできない。しかし、古くからカンフー映画と言えば忍者であり、よくカンフーマスターは忍者との戦いを強いられてきた。
夫婦喧嘩がリュー・チャーフィーと倉田保昭の日中交流戦にまで発展する『少林寺VS忍者』や、コナン・リーと真田広之がコンビを組む『龍の忍者』。マックス・チャン主演デビュー作『ULTIMATE BATTLE 忍者VS少林寺』に、世界的忍者映画の名作にして、忍者参考文献によって五遁を司る正確な忍者描写に成功した忍者映画史のエポックメイキング的作品『少林拳対五遁忍術』など、カンフーマスターと忍者が闘ってきた歴史証言は枚挙にいとまがない。
いままでストリートのリアルとカンフー映画に共通点を見出してきた本作は、この忍者の登場によって完全にフィクションとしてのカンフー映画を完成させる(重ねて言うが、70年代のニューヨークに忍者がいたという可能性を切り捨てることはできない)。

ハンサム・ハリーの依頼を受けた忍者は、ディスコの中を色つきの風のように走り回り、ブルックリン橋の近くで行きずりの女とカーセックスするネイサンからタイヤを盗み出すことに成功する。
当然タイヤを盗み出されたネイサンは犯人を探し出そうとするが、今度はサンドイッチと帽子を気づかぬうちに盗まれてしまう。
これらの一連のシーンは非常にコミカルでクスリと笑えるものとなっており、素直に笑わせようとする意図を感じる。しかし、カンフー映画に出てくる忍者がただコミカルな存在であるはずがなく、最終的にネイサンは赤ん坊を誘拐されてしまう。空になったベビーカーには一つのメッセージが残される。

「赤ん坊が欲しければ今夜8時に家の屋上へ来い。忍者より」(訳文ママ)

大切な我が子を奪われたネイサンは自らを鍛え直したのち、たった一人で忍者の待ち受けるプロジェクトの屋上へと赴く。頼れぬ者はいない。在るのは己の身一つのみ。燃える展開だ。もちろん、今まで影も形もなかった赤ん坊が急に出てくるという雑なところはある。だが、そういうところも含めてカンフー映画だろう。

もうお気づきかもしれないが、『殺人的護身術』はただカンフー映画を真似しただけの作品ではない。それと同時に、スタントマンのデモリール映画のようにストーリーを妙にこねくり回した結果全てを台無しにしているような作品でもない。
独特の個性を持ちながら、カンフー映画を踏襲する唯一無二の作品となっている。
物語の終盤、武術道場を失ったネイサンは「金こそが真の殺人的護身術だ」と語る。仕事が無く、金を稼ぐには悪事を働くしかないゲトーの現状を端的に言い表した言葉である。

素人が物語に個性を出そうとすると、小手先の手段に頼った鼻持ちのならない作品に仕上がるが、本作は素人が撮ったような作品でありながら王道とオリジナリティを高い次元で両立している。
それは、ネイサン・イングラムがこの映画を通じて伝えたいことが一貫しているからだ。

あまり褒めすぎると錯覚してしまいそうだが、本作は別に「面白い映画」ではない。何度でもいうが、映像はホームビデオと大差ないし、ストーリーの大半は即興で成り立っている。
だが、『殺人的護身術』の予算は2000ドル。撮影期間は2年。生半可な覚悟で撮ろうとするものなら、途中で折れてしまいそうな金額と日数である。そのうえ、予算の大半は間違いなくエキストラを集めるためのピザ代に費やされている。
それでもネイサンとチャーリーは週末になれば必ずブルックリンに集まり、映画を完成させるためにカンフーをした。
その熱量は、高校の文化祭の映像作品のような、作品を作る共有体験それ自体を目的としたものではない。明らかに面白いものを作り、それを通じてなにかを伝えなければいけない者の熱量だ。
ブルース・リーがカンフー映画を通じて己の哲学を伝えたように、ブラック・ブルース・リーであるネイサン・イングラムもまた『殺人的護身術』で己の哲学を発信している。そういう意味では、この映画は本当の意味でのカンフー映画であると言える。

本作のエンディングは雪が吹き荒れる荒涼としたニューヨークを背景に、窓ガラスに手書きでかかれたスタッフロールを上から下へ写すというものだ。これぞまさにDIY的であり、同時にミニマムな描写の見せる美しさもある。
重ねて言うが、本作はただのカンフー映画の模倣ではない。ネイサン・イングラムのリアルを描いた物語であり、だからこそカンフー映画でありながら他にはない個性が光る。
本作のインタビューで、ネイサンはチャーリーにこう語っている。
「若者たちに武術を学べば別の生き方があると伝えたかった。ギャングになったり、ドラッグを売ったりしなくてもいいと」
彼が自分を主演にして映画撮ろうとチャーリーに持ちかけたのは、若者たちにただ一つのメッセージを伝えるためだったのだ。
そして現在ではHIPHOPもその役割を担っており、多くのラッパーが同じようにギャングやドラッグについて大切なことを発信している。
映画『殺人的護身術』はカンフーとヒップホップの融合を描いた記念碑的作品であり、剥き出しの創作意欲と創意工夫をリアルに感じることができるDIY映画だ。
また、歴史を目撃できるというだけでなく、70年代のニューヨークで近所の兄ちゃんたちが集まって作った映画が現代日本で見れるという意味でも、改めて一見の価値がある作品だとここに明言しなければならない。

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