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トランプvsバイデン

 今日で大統領執務室の椅子に座るのも最後だ。
 歴代大統領のケツの汗を染み込ませたそれは、もたれかかると応えるようにキイと鳴いた。
 不思議と、今日で大統領の座を辞することに、なんの感慨もわかなかった。それどころか、この4年間、アメリカで最も偉大な男であり続けた日々は、非常に空虚なものだった。
 何故なのかはもうわかっている。
 あの半年だ。あの半年が私を狂わせた。
 あの男とのアメリカの頂点を決める戦いこそが黄金だった。80年間生きて、あれほど激しく身を焦がす戦いはなかった。
 今の私は萎えたチンポだ。
 再び奮い立たせるには、あの男が必要だった。
 スマホを取り出す。
 電話帳には登録されていないが、番号は記憶していた。
 三回コール音が鳴り響き、しわがれた声が耳に届く。ああ、この声だ。
「久しぶりだな。バイデン」
「そういうあんたこそ。大統領」
 変わりない態度に、思わず目が細んでしまう。
「今日で退任のようだね。わざわざ私に電話するとは、なかなか嫌味が利いてるな」
「そうでもない。ただ大統領の椅子の座り心地が気になるんじゃないかと思ってな」
 受話器の奥でバイデンがハッと笑い飛ばすのが聞こえた。
「君も忙しいはずだ。私のような老人と電話をする暇は無いだろう」
「……」
 そこで少し、息を吸い込む。どうも、心臓の動悸が止まらない。年のせいではない。もし、この動悸が彼に伝わっていると思うと、とても怖かった。
 覚悟を決める。
「──バイデン。私ともう一度戦ってくれないか」
 一気に捲し立てる。
「大統領としての日々は灰色だった。君のせいだ。君との戦いで、私の日常は退屈なものとなってしまった。だからバイデン。君ともう一度戦いたい。そうしなければ、もとの私に戻れない。君だけが私を奮い立たせてくれるのだ」
 この四年間、ずっと抑え込んでいた言葉は堰を切った洪水のように止まらない。全ての想いを言い切ってしまった。これでどんな答えが返ってこようとも、悔いはない。ただほんのちょっと怖いだけだ。
 バイデンは、受話器の奥で小さく笑う。
「君もなかなか熱い男だ」
 カアッと頬が熱くなる。まるで子供を諌めるかのような笑い方だ。私の想いは彼に届かなかったのだろうか。しかし、バイデンは言葉を続ける。
「──だが、なるほどな。どうも毎日が退屈していると思ったら、政界を退いたわけではなかったのだな」
「……!」
「いいだろう。ミスタープレジデント。どうやら私も未だあの大統領選の熱狂の中にいるようだ」
「バイデン!」
 やはり、やはりこの男だ。この男だけだ。私の心を揺れ動かすのは。これほど昂るのは、間違いなく4年ぶりである。
「とはいえ、どうする? まさか今から選挙するわけにもいかないだろう」
「今すぐホワイト・ハウスの地下に来てくれ。君に見せたいものがある」

 ホワイト・ハウス地下■■階。
 レバーを引くと、強い照明が頭上から降り注ぐ。
 一時は目を細めたバイデンも、次の瞬間には目を丸くした。
「これは、一体……」
「ふふん、どうだ」
 強い照明が主役のように照らすのは、大統領でもバイデンでもない。朱に染まって輝くボクシングリングだった。
「まさか、ホワイト・ハウスの地下にこのようなものがあるとは……」
「驚いただろう。これを造ったのはジョン・F・ケネディだそうだ」
「なにっ」
「当時醜聞を噂されたマリリン・モンローの都市伝説は知っているか?」
「ああ。ジョン・F・ケネディが愛人であるマリリン・モンローと密会するために地下通路を造ったという……」
「それは真実ではない」
 バイデンが生唾を飲み込むのがわかった。そう、今語っているのは、大統領以外一部の者にしか知りえない、最高機密事項の一つだ。
「ジョン・F・ケネディとマリリン・モンローは愛し合っていたのではない。憎しみ合っていたのだ」
「なんと……」
「そこでジョン・F・ケネディは、マリリン・モンローと拳で決着をつけるために、このリングを造ったのだ」
「ハッ」
 バイデンは噴き出した。
「自由の国アメリカだな」
 アメリカの最高機密事項は、常人ならば正気に耐えられぬほどの重みを持つ。しかし、流石は私の認めた男だ。ただ笑い飛ばすだけとは!
「ふふふ、熱くなってきただろう。半世紀ほど前、憎しみをぶつけ合ったリングが、再び燃え上がるのだ」
「……それで、結果は?」
「なんだ?」
「ジョン・F・ケネディとマリリン・モンロー、どちらが勝ったのだ?」
「記録されていない。だが記録されていないことこそが、結果を雄弁に語っているとは思えないかね?」
「なるほどな」
 バイデンは口の端を歪ませる。
「我々もそうならないといいな」

私とバイデンはリングの上で向かい合う。
「おいおいおいおい」
 上着を脱いだバイデンを見て、思わず息を漏らす。
「じじいの身体じゃねえだろ……!」
 その上半身は、齢80の枯れた肉体ではなかった。まるでロッキー山脈のように隆起した瑞々しい肉体であった。
「まさか、予感していたのか? この戦いを……」
「わからない。ただ大統領選の熱狂が、常に私を突き動かした。……そういう君こそ、ずいぶん鍛えているようだが。それで当日戦いを申し込むのはいささか卑怯ではないかね」
「なに、大統領選もフィスト・ファイトも、ルール外の戦いが重要なのだよ。それに君は応えてくれた。私のとった卑怯な手を、見事に超えて見せた。だからだよ。だから君なんだ」
 バイデンは、私に向けて小さくウインクする。
 やはりだ。離れていても、私とこの男の想いは常に一緒だったのだ。
「それで、ゴングはどうする?」
「必要か?」
「必要ない」
「ルールは?」
「もちろんノールールだ」
「ふっ……」
「ははは……」
 一気に踏み込む。互いに放った右フックは、互いの顔面にめり込んだ。この肉の弾ける音こそ本当のゴングだ。
「バイデンンンンンンンンンンンンン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
「トランプウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ!!!!!!!!!!!!」
 4年という月日をこの拳に乗せる。ガードなどするつもりはなかった。アメリカ合衆国大統領はガードなどしない。それはバイデンも同様だった。
 ひたすら肉と肉を打ち付ける。まるで牛肉を殴っているかのようにしなやかで、手ごたえは無い。
 それでも私は拳を打ち込む。伝わるはずだ。この思いが。
 何故なら、君の打ち付ける拳が、こんなにも熱いのだから。
「オオオオオッ!!!」
 放った右ストレートがバイデンの顔面を貫く。ふらりとよろめくバイデンだが、左足をリングに踏みつけ、ニヤリと口の端を歪ませる。
「フッ!」
 瞬間、視界が揺れる。どうやら彼の拳がモロに入ったようだ。口の中で血の味が噴き出した。
「コポォ」
 血を吐き出すと、なにやら白いものも混じっていた。私の歯だ。強烈だ。これを求めていた。もし仮に全ての歯を失ったとしても、私は決して後悔しない。
 私はバイデンの首を掴むと、膝で顔面を打ち付ける。骨がぶつかり合う音がし、血が弾ける。
「ぶべッ」
「いったはずだぞバイデン! これはノールールだと!」
 当然、足技禁止のルールなどない。スポーツマンシップなど、犬に食わせろ!
 このまま首相撲に持ち込み、抑え込む!
「死ねッ! 死ねッ! 死ねええええッ!」
 するとフッと、視界からバイデンが消えた。手のひらの感触すらない。否、違う。バイデンは消えたのではない。床に伏せたのだ。
 次の瞬間、目の前にあったのは、バイデンの足の裏──。
「ぷギャッ」
 この子ブタみたいなうめき声を出すのは、誰だ。まさか、私か?
 背中にマットの衝撃が伝わり、どこまでも重く沈んでいく。
 なにが起こったのだ。頭を巡らせろ。何年大統領をやったと思っている。そうだ、蹴られた。わたしは蹴られたのだ。
 咄嗟に跳ね起きる。みると、バイデンがゆらゆらと捉えどころのない動きをしていた。
「まさか、お前、その動きは」
「カポエイラ……」
 それは、南米に伝わる、暗黒の格闘技。踊りと蹴りを組み合わせた、唯一無二の格闘技。カポエイラだ。だが、一体。
「いつそんなものを身に着けた。Wikipediaには、そんなこと書いていなかった」
「4年だ。4年かけて私はこのカポエイラを身に着けた」
 4年だと……?
「ま、まさか……ッ」
「君はまるで、自分こそがこの勝負を待ち望んでいたかのように語るな。……冗談じゃない」
 バイデンは血の混じった唾をリングに吐き捨てる。
「私だよ。私のほうこそ、この時を待ち望んでいたのだ!!!!! 君と、再び戦うために、この四年の日々はあった!!! 君が私と闘いたかったのではない! 私が君と闘いたかったのだ!!!!!!」
 バイデンの叫びがこのリングを震わせる。
「君が申し込んでこなければ、今日、私の方から申し込んでいた。君から電話を貰ったとき、血が沸騰しそうだったよ。この鼓動が、君に伝わってしまうんじゃないかと気が気でなかった」
 ああ。
「それから君がこのリングに私を招待した時、心臓が飛び跳ねるほどうれしかった。まさか、80を越えて殴り合おうという酔狂な考えを、私以外の人間が持っているとはね」
 ああ、同じだ。
「そして君の肉体ときたら! まるでロッキー山脈じゃないか! なんて瑞々しさだ! ああ、神よ!」
 同じなんだ。
「さあ、殴り合おうじゃないか大統領。君の拳は、どこまでも熱かった」
 君と僕は、どこまでも同じなんだ。こんなに通じ合って、分かり合えることが、これほど嬉しいだなんて。
「どうした大統領」
 バイデンが笑いかける。
「泣いているじゃないか」
 血と判別がつかないが、頬に触れると確かに泣いているようだった。
「本当だ。なんでだろうな」
「情けないなあ。大統領とあろうものが」
「でも、君だって泣いているじゃないか」
「はれ?」
 バイデンが目を丸くし、頬に触れる。
「ふ、へへへ。なんでだろ。涙が止まらないや」
「ひひ、へへへ」
「ふひひひひひ」
 リングの上にいる二人の糞餓鬼が、血と涙を流して笑い合う。
 次の瞬間、リングを踏みしめ、殴り合う。
 うれしいなあ。うれしいなあ。
 心が通じ合うことが、こんなにうれしいなんて。
 通じ合っている男と殴り合えるのが、こんなに幸せなんて。
 もし、仮に負けて死んでも、私は今日という日を絶対に忘れないだろう。
 私という人間は、今日この日のためにあったのだ。

 目を覚ますと、強烈な光が目に差し込んでくる。
 私は、マットの上に沈んでいた。全身に鈍い痛み。起きあがろうにも、体が言うことを聞かない。
 自分は、負けてしまったのだろうか。
 ふと横を見ると、同様に寝転んでいるバイデンと目が合った。
「あっ……あっ……」
「あっあっあっあっ」
 互いに指さす。痛みが酷すぎて言葉にならない。
 だがこう言っていることがお互いに理解できた。
『どっちが勝ったんだ?』
『俺に決まっているだろ』
 言い合っても仕方がないので、備え付けてある監視カメラの映像を確認した。結果は、私の敗北。どうやら、こちらのほうが0コンマ1秒、マットに倒れるのが早かったようだ。「これでリベンジできたな」とバイデンの肩を叩く。するとバイデンは「私は四年間鍛え続けていた。職務で忙しいのに、最後まで食らいついた君の方が立派だった」と肩を組んでくれた。
 お互い、既に勝敗は気にならなくなっていた。何故なら、心が通じ合える真の友達ができたのだから。
 もう、私の日々が灰色になることはないだろう。
 その時、リングの向こうから微笑みかけてくるジョン・F・ケネディとマリリン・モンローを見た気がした。
 あるいは、それはパンチドランカーの見た幻覚だったかもしれない。

【おわり】

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