空手の道場訓の意味と活かし方

1児の母で空手家のサティーです。

10年以上の稽古を振り返ると。自分を含め、周りの国体選手や元全国大会連覇のチャンピオン、実力の高い選手でも「道場訓」を人生に全活かせてないな。と思う場面が多々あります。

実際、ダメだと感じた事...

・好戦的
・すぐにキレる
・言葉が悪い

など。

私の場合、普段は好戦的ではないのですが、子育て中にちょっとした事でイライラしたり、叱る時に感情的になって言葉が悪くなってしまうことがあります。ああ、反省。

特に、残念だったのは特に大学時代の「同期」の存在。誰と練習するよりも彼女と練習するのが生涯で一番くらいに嫌だった。プライベートでは恋愛相談やら食事に誘っては来て仲良くしていたのに、練習試合となると、まるで人格が変わって、人を殺しにかかるような目つきと勢いで蹴りや突きを繰り出し、人を殴る事に快楽を感じていたように思えて仕方がなかったのでした。

元々、型派で組手は苦手な選手だった私はとても「かかってこい!」の精神で立ち向かえず、部活をやめたくなった事もある話は今は、置いておいて。

話を「道場訓」に戻します。せっかく、毎日練習後に声に出して読んでいても、なんで人生で活かせない人が多いんだろう。

それが長年、謎で。最近読んだ本「WHO YOU ARE」の中の第3章の「武士道」の部分から大きなヒントを得ました。
武士道には8つの規範を守り、実践するためにためのシステムがあるんです。一方で空手道にはほとんどの道場でその道場訓を実際の生活に役立てられるほどのシステムがない事に気づきました。


では、まず道場訓から紹介します。


空手の道場訓と意味

一、人格完成に努むること
一、誠の道を守ること
一、努力の精神を養うこと
一、礼儀を重んずること
一、血気の勇を戒むること

5つある道場訓。

それぞれの解説は日本空手松涛連盟では以下のようになっています。

一、人格完成に努むること
空手道の修行を行うものにとって目標として一番大切なことである。日々の厳しい稽古の中でお互いの人格を尊重し、人間性の向上発展に努力することが必要である。第二条以下の道場訓はすべて第一条の目標達成の方法である。

一、誠の道を守ること
誠とは真心であり、ひとたび口にしたことは必ずやり遂げる、これが誠の道なのである。言ったことは実行する、嘘をつかない、ということが人からの信頼を高める根本である。

一、努力の精神を養うこと
何事も努力なくしては成功することはできない。このことは理屈でわかっていてもなかなか実行できないものである。そこで努力するためにはまず精神、即ち心から決意する必要がある。そして決意したことに努力して立ち向かっていく、そうでなくては何事もなしえない。


一、礼儀を重んずること
礼儀とは、最も人間性のあらわれであり、秩序の根本である。相手を尊敬して礼をすることも当然でありうるが、実は礼儀は自分自身のためにあるということを知らなければならない。初対面で相手に対して、堂々としかも丁重に礼をすれば、相手は感応して信頼を高めることができる。人間の真価は礼節にあらわれる。決しておろそかにすべきではない。


一、血気の勇を戒むること
人間はとかく我が儘な心に支配される。ちょっとしたことにでもすぐカーッとなって腹を立てる。相手に突っかかる。本人は勇ましく振る舞っているつもりかもしれないが、端から見ると滑稽なものである。空手道の修行に励むものは、些細なことですぐ腹を立てるようでは、空手道の名に恥じる。 腹が立った時には、にっこり笑えるほどの心のゆとりを持つことが大切である。


つまり、空手の練習において最も大切な教訓はざっくり言うと
人として成長すること」であったのか。ということがわかるかと思います。私は地元の道場3箇所通い、練習後に毎度道場訓を唱えていました。でも、どの道場の先生も(言葉を)覚えなさいというだけでした。誰も意味を丁寧に教えてくれませんでした。幼い私もまるで、呪文のように唱えてそれでOK!と思っていました。


でも、これだけじゃ、活かせないんです。

道場訓を人生に活かせなかった最大の理由

それにしても、意味をある程度、理解していたとしても何故人生に活かせないのか?それについてはシステムが原因と言う事に触れました。

では武士道のシステムはどうであったか。と言うとー

武士道には8つの規範がありました。
「義、勇、仁、礼、克己、誠、名誉、そして忠義」。

これも最も大きなカテゴリで、短く覚えやすくした言葉にすぎません。すべての徳には細かく具体的な定義があり、一連の原則と実践と逸話を通して補強されていたのです。

このすべてが一緒になってシステムとして機能し、どれかひとつの徳が誤解されたり誤用されたりすることのないようお互いに均衡を取り合っていました。

さて、ここでは規範の誤解や誤用を防ぐための具体的な文章の一部を以下に引用します。



「武士道」の逸話から「正しい事(誠)とは何か」を学ぶ


正しいことをするには3つの方法がある。  
仮に、金百両を持つ知り合いと旅に出ることになったとする。金を持ち歩くのは面倒なので、戻るまで家で預かってほしいと頼まれた。そこで金を預かり、決して見つからない場所に隠しておいた。さてここで、旅のあいだにその知り合いが食中毒か心臓発作で死んでしまったとしよう。あなたが金を預かっていることは誰も知らない。 

その状況で、あなたが知り合いの死をただ悲しみ、亡き人の家族に金を預かっていることを伝え、すぐにそれを送り届けたら、真に正しいことをしたと言えるだろう。 

では次に、金を預けた知り合いとは、それほど親しくないとしよう。
あなたが金を預かっていることは誰も知らないので、問い合わせもない。
たまたまあなたは金に困っている。そして一瞬、しめた、そのまま黙っておこうかと考えたとする。  

そんな考えを一瞬でも思い浮かべたことを恥じ、気持ちを入れ替えて金を知人の家族に戻したとすれば、恥の気持ちから正しいことをしたと言えるだろう。  

ではその次に、あなたの妻か子供か家来か誰かが預かった金のことを知っていたとする。家族にどう思われるかを心配し、法を犯すことを恐れて金を返したとしよう。

それは、他人への恥から正しいことをしたと言えるだろう。  

もし誰もこの金のことをまったく知らないとしたら、あなたはどうするだろうか? 

(書籍:「 WHO YOU ARE 君の真の言葉と行動こそが困難を生き抜くチームを作る」より)


 正しいことをするのに「正しい理由」からか、恥や罪の意識からなのかについて、特に区別はしていません。また「なぜ」正しいことをするのかは、重要ではないのです。

正しいことをすれば、それでいい

武士の心得をつくった人は、時と場合によっては正しいことをするのが難しくなるのをしっかりと理解していたのです。だから具体的で細かい、事例をあげて、同志や子供達に語り継ぎ実戦できた人の集団によって日本独特の侍文化が形成されたのです。  


この武士道の章から、改めて「武士道」の文化の凄さ、特に明治以降に消えていった日本の伝統的な文化の儚さのようなものを感じました。



人生に道場訓を活かすために...


武士道の心得ではいつも「死」について考えるところから始まります。

今、私が自分の「死」を考えると、いかに周りの人を許せたか。尽くせたか。そして、一人一人に感謝の気持ちを持っているかを想像します。

逆に、たった一人でも強く、妬みや恨みの気持ちを抱いて死んでしまうと自分という人間が醜くくて、その気持ちのまま死んでしまうと悲しい人生になります。

だからまずは「自分はもっと、良い人間になれる」と信じる。

それから日々、特に自分勝手ではないか。礼儀や誠実さに欠けていないか...気づけられるようになりたいなと考えます。
娘にもただ、「悪いことはしてはダメ」と叱るんではなくて、どういう時にそれは悪いことか「良いことはどういうことか」具体的に話して、自分が身をもって矛盾しないような生き様を見せる。

そうするしかない。と思いました。


今回、武士道の規範とシステムに注目しましたが、組織文化についても深く考えさせられるこの本。今、アマゾンでベストセラーになっています。

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