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Jリーグがあったから、僕はこうして生きている。

 本日は5月15日。

30年前の今日(1993年5月15日)は、Jリーグが開幕した日でした。

せっかくの機会です。いっぱしのサッカーライターとして生計を立てているわたくし・いしかわごうも、あのときの思い出を振り返ろうと思います。

30年前の今日、僕は北海道の田舎にいるサッカー部の中学生でした。なので、国立競技場まで試合を見に行けるわけもありません。

ただ当日のことはよく覚えています。

土曜日でした。当時はまだ完全週休二日制ではなく、土曜日も午前授業がありました。午前授業を終えて午後からは部活です。他校との練習試合が組まれていて、試合は1−3で負けました(弱小でした)。

「今日からJリーグだから、勝ちたかったなぁ」なんて友達と話しながら、Jリーグ開幕戦の中継を家で見たいから、寄り道せずに夕方に帰宅していきました。サッカー部のみんなもまっすぐ帰る雰囲気でしたね。

トボトボと家に帰って、お風呂に入ってからテレビをつけると、目に飛び込んできたのが、カクテル光線の飛び交う国立競技場のド派手な開幕セレモニーです。まるで別世界の国の出来事を見ているような感覚で眺めていました。

 日本サッカーの新しい始まりの瞬間です。
この試合の中継はビデオテープに録画して擦り切れるぐらい見ましたね。ちゃんとツメを折って保存してましたよ(平成生まれはわからないと思う・笑)。だから試合内容のことはかなり詳しく覚えています。

 それから10数年経って、僕はサッカーライターとして飯を食べていく人になっていました。いろんな方々にお世話になって続けられている仕事ですけど、書籍も何冊か出させてもらったりと、本当にありがたいことです。

 今から15年前。
東京ヴェルディがJ1に復帰した2008年シーズン、僕はサッカー専門新聞エルゴラッソで東京ヴェルディ担当でした。

そしてこの年、3年ぶりに横浜F・マリノスとの伝統の一戦が行われるということで、当時クラブのアドバイザー的な役職だったラモス瑠偉さんに1993年のJリーグ開幕戦に関する思い出をロングインタビューをさせてもらったことがあります。

それまでの2年間で監督だったラモスさんには、たまに当時のエピソードを聞きましたが、Jリーグ開幕戦の記憶を真正面から聞かせてもらうのは初めてです。中学生のときの僕が知ったら、泣いて喜んでいたことでしょう。「サッカーライターをやってよかった!」と思ったインタビューでもあります。

■国立に入ってみてビックリしたね。超満員だよ?

Jリーグが開幕した歴史的な日はどんな雰囲気だったのか。

ラモスさんがスタンドを観て一番驚いたのが、国立競技場を埋めたお客さんの数だったそうです。今まで見たこともないような、あまりに圧倒的な数だったからです。

「前の年から8千人とか1万人でプレーしていたけど、まさか国立がいっぱいになるとは思わなかった。当時はミーハーが多かったし、自分は新聞を全然読まなかったから、世間がどういう風に盛り上がっているのか、あんまりわかっていなかったんだよ。明日開幕で3万人か4万人は入るかもよって聞いていたけど、国立に入ってみてビックリしたね。超満員だよ?どこを見ても人がビッ~~ッシリ埋まっていて、たまげたね。5万9千人って発表されているけど、絶対に6万人は入っていたよ」

・・・観客数は「 59,626人」と発表されてます。ただこの開幕戦を見に国立に行った人や関係者の話を聞くと、スタジアムの場所のどこを見ても人、人、人でコンコースにも溢れているほどのギュウギュウ詰めで、チケットはあるけど席がない人があまりに多すぎて、暴動が起こってもおかしくないぐらいの超満員だったそうです・・・「6万人は入っていた」とラモスさんが断言したのも無理もないかもしれません。実際には6万数千人だった可能性は高そうですね。

そしてJリーグの開幕戦のカードは、ヴェルディ川崎対横浜マリノス。

なぜこのカードだったのか。

ラモスさんは、その理由として、自分たちが日本サッカーを牽引してきたことの自負を強烈に口にしてました。

「少し失礼ないい方かもしれないけれど、読売と日産が頑張って日本をプロにしたんだよ。

ロングボールを蹴って走って蹴って走っての時代に、俺たちはショートパスをつないでつないでサッカーして、見た目もチャラチャラしてたから、『あんなのサッカーじゃない』って言われたよ。

けど、『俺たちが日本で一番うまいクラブだ』って言って頑張った。

そこで加茂さんが『俺たちのほうが読売クラブよりも強い』ってすばらしい日産を作って、そこから他のクラブが『何が読売だ』、『何が日産だ』って意地を出してきて、89年とか90年に日本リーグのレベルが高くなった。それで日本もプロになれるビジョンができたんだよ。

だって、何でJリーグの開幕戦はヴェルディとマリノスだったの?

どのチームも開幕戦には出たいんだから、別に抽選でもよかったんじゃない?

でも開幕戦は、ヴェルディとマリノスだった。

それは読売と日産が日本のサッカーを引っ張ってきたからでしょ。間違いないよ。だから、このカードは本当に特別な一戦なんだよ。だから、本当に必死でやったよ」

■俺たちこういう舞台でやれたなっていう喜びのほうが、ずっと大きかった。

試合は謎のオランダ人・マイヤーのゴラッソが突き刺さるオープニングゴールでヴェルディが先制するも、マリノスが逆転。開幕カードにふさわしい熱戦の末、マリノスが歴史的勝利をあげました。

 当時はヴェルディとマリノスの2強と言われていたのですけど、「ヴェルディはマリノスに勝てない」という相性の悪さがあったのです。今思うとショートパスをつないで中央から崩すヴェルディのスタイルと、日本代表を揃えて堅い守備をベースにするマリノスのスタイルの噛み合わせの問題だと分析できるんですけど、当時は「相性が悪い」で済まされていましたからね。そしてそんな相性の悪さを、Jリーグ開幕戦でも覆すことができませんでした。

ただラモスさんは、あの試合には勝ち負け以上に熱い思いがあったと明かしてました。

「試合には負けたけど、すごくいい試合だった。それよりも、俺たちこういう舞台でやれたなっていう喜びのほうが、ずっと大きかった。試合後、『俺たちもようやくここまできたな』ってみんなで呑んでたら、水沼(貴史)とか井原(正巳)も騒ぎに来て、喜びを分かち合った。

試合には負けてるし、相手はライバルだよ?

でも、ここまできたぜ、もっと頑張ろうぜ。そういう気持ちのほうがすごかったんだ。和司(木村和司)だけが『あれ?また勝てなかったの?』って、あの広島弁でバカにしてきたけど(笑)。アイツはいつもそうなんだよ。『このやろー、アホ!』って言ってやったけど(笑)」

あの開幕戦後の夜、ヴェルディとマリノスの選手が集まって喜びを分かち合ったというエピソードが素敵ですね。そして、その状況にチャチャを入れてた木村和司さん、さすがです・笑。

そしてこの年、ヴェルディはJリーグ初代チャンピオンに輝きました。

■なぜあの時のヴェルディは強かったのか。

当時の強さを示すエピソードは、たくさんあると思います。

 僕がラモスさんの話を聞いていて、「そりゃ、あの時のヴェルディは強いよな」と感じた話があります。

それは、スタメンではない選手たち・・・いわゆる控え選手たちの意識の高さです。

 ヴェルディはナビスコカップ(現:ルヴァンカップ)で初代から3連覇してます。当時のヴェルディは、カズ(三浦知良)、ラモス、柱谷哲二、武田修宏、北澤豪、都並敏史・・・と、日本代表選手がほとんどのスター軍団だったため、強いのは当然と思われがちですが、ナビスコカップというのは代表選手抜きで戦う大会です。

ただ当時のヴェルディは、代表組がごっそりいなくても、試合に飢えている選手や出番を得た若手などが結果を出し、毎年決勝戦までしっかりと勝ち上がっていくわけです。チャンスをもらった若手が、ちゃんと結果を出すチームでした。

「僕たちの時代は、僕たち抜きで、藤吉(信次)とか永井(秀樹)とか若手だけで決勝まで行ってた。そして僕たちが決勝で美味しいところを持っていった(笑)。

でも当時『なんだよ?決勝は俺たちを出してよ!』って文句言った選手は誰もいなかった。当たり前のように若手はベンチに戻って、ベンチに入らない選手もいた。それでも雰囲気はものすごくよかった。

僕たちも彼らに対して失礼なプレーはできないと思っていたから、ものすごいプレッシャーを抱えながらピッチに立ったよ。彼らのためにも優勝しないとダメだぞ、プライド見せるぞって気持ちでプレーしていたよ」

チャンスをもらった若手が、レギュラーにプレッシャー与えるような結果を出すわけです。その危機感から、レギュラーはさらに奮起する。そういうサイクルでヴェルディは黄金期を作っていたとも言えるのだと思います。

 そして何より、選手一人一人がプロフェッショナルでした。当時のチーム内での意識の高さを、こんな風に語ってくれました。

「サッカーは、監督がすべてをやるもんじゃない。ある有名な監督は、『監督の力は30パーセント』って言っているけど、僕は20パーセントだと思っている。残りの80パーセントは選手だよ。コンディションとか、どういう気持ちで戦っているか、そこが問題。失敗はしてもいいけど、選手がちゃんと反省をして、選手同士で修正しないと。

僕が現役のときも、ミスしたら『なんだ、このミス!』ってよく怒っていた。都並(敏史)によく『フザケンナ!』って怒鳴ってたよ。

でもそれは本人たちのためを思って、厳しく言っていた。だって彼らがよくなれば、ヴェルディというチームが強くなるじゃない?

どうやって攻めるのか、どこでボール奪うか、セットプレーとか、そういう戦術的な部分だけに監督は専念できた。それ以外の、1対1に負けないとか、攻守の切り替えをしっかりする、とかそういう部分は『なんだ、その戻りは?ここで早く戻れよ!』って選手同士で徹底的に言い合って修正していた。

確かにものすごく強い個性を持っている選手たちだったかもしれないけれど、選手が自分達で勝手に修正してくれたので、監督としては楽だったんじゃないかな」

なるほど。「強いチームにはワケがある」ということです。

■チャンスを与えられたら、若手はもっと自分を追い込んで必死でやって応えないといけない

それだけに、2008年当時のヴェルディに所属していた「若手の意識」には不満を持っているようでした。

「例えば、ナビスコカップでチャンスを与えられたら、若手はもっと自分を追い込んで必死でやって応えないといけない。『ここで結果ださないと2回目のチャンスはもらえないぞ』ってね。

そして2回目のチャンスのときには、『3回目のチャンスもらうぞ!』って。

3回目のチャンスのときは、『これで完全にレギュラー取るぞ!もうサブじゃないぞ』って。そういう強い気持ちでやらないと」

もう、こうなると止まりません。スイッチが入ったため、ラモス節で一気にまくしたてます。

「試合に出てお金もらって満足しているだけじゃダメ。

自分の目標は何なんだ?

将来はどうなりたいんだ?

お金が欲しいだけなのか?

それとも、ここでレギュラーを取って、日本代表にいきたいのか?

試合を見ていて、そういう気持ちが伝わってこないね。

そんな雰囲気はヴェルディにはいらない!」

ラモスさんといえば、「キモチだよ、キモチ!」というフレーズが有名ですし、どうしても「精神論」と揶揄されがちですけど、そういう志の重要性を語る人でもありました。これだけストレートに「サッカー選手としてどうなりたいのか」という野心を問いかける人も、今の時代はなかなかいないのかもしれません。

■Jリーグがあったから、僕はこうして生きている。

・・・とまぁ、少し話が逸れてしまいましたが、30年前の今日、自分はテレビの向こう側の出来事としてJリーグを見ていた、田舎のサッカー少年だったわけです。

 Jリーグができたことで「サッカーライター」という職業も成り立つようになり、自分は取材パスをもらってJリーグを取材するようになりました。サッカーがあったから、Jリーグがあったから、僕はこうやって生きています。

2017年には密着取材している川崎フロンターレが、J2オリジナルクラブとして初めてリーグチャンピオンに輝く歴史的な瞬間に立ち会うことも出来ました。

 そして2023年の5月12日。
川崎フロンターレとFC東京による伝統の一戦・多摩川クラシコが、Jリーグ30周年記念スペシャルマッチとして国立競技場で開催されました。Jリーグが開幕した時は、まだプロクラブではなかったサッカーチーム同士のカードです。


この日の観客数は56,705人。平日開催のJリーグでは歴代最多となる動員数を記録しました。この多摩川クラシコもまた、Jリーグの積み上げてきた歴史の一部なのだと思います。

(なお試合のレビューはこちらで書いてます。約12000文字もあるのでご注意を・笑)。

 Jリーグを取り巻くいろんなことに感謝しながら、また前に進んでいこうと思います。

次は35周年、40周年・・とJリーグはこれからもずっと続いていくと思います。50周年を迎える頃、自分の年齢を計算したら、うーん、流石にサッカーライターの仕事はしていないような気がします(そもそも、サッカーライターという職業が残っていない気もしますが)。

そう考えると、1試合1試合を大切に観て、取材しようと思いました。

Jリーグ、30周年おめでとう!これからもよろしくね。

ご覧いただきありがとうございます。いただいたサポートは、継続的な取材活動や、自己投資の費用に使わせてもらいます。