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映画『THE FIRST SLAM DUNK』を語る(2回目):映画から伝わってきた「ダンコたる決意」

映画『THE FIRST SLAM DUNK』。おかわりとして2回目を鑑賞してきました。その感想をネタバレありで述べていきたいと思います。

初見ではとにかくその迫力に感動し、ただただ圧倒された部分が多かったので、2回目は少し冷静に、宮城リョータ視点の作品であることを踏まえて鑑賞してきました。

ざっくりとした話になりますが、宮城リョータ視点での物語だったからこそ、試合終盤の「ドリブルこそチビの生きる道なんだよ!!」は、原作以上に強烈な意味のあるシーンになりましたし、あそこで主題歌が流れるタイミングには痺れましたね。

初回とは違い、「宮城目線を中心に進んでいく」を前提に観たことで、いくつかの発見があったので、それを語っていきたいと思います。

(なお初回のレビューはこちらです)

■作品の中にある明確な優先順位

まずこの映画は、原作をベースにしているものの、実は優先順位をかなりはっきりとつけた描き方をしているということです。

例えば山王工業との試合シーンに関していえば、宮城とは関係ないキャラクターの背景やエピソードがバッサリとカットしています。ここはスラムダンクファンから賛否が起きた原因でもありますが、「宮城リョータ目線で進んでいく」と考えたら明確な線を引いているという意味では一貫しています。

多くのファンが嘆いた、カットされた名シーンをいくつかあげていきましょう。

・魚住純によるかつらむきからの名言「泥にまみれろよ」

・流川楓の回想で仙道彰に対する「沢北じゃねーか、どあほう」

・安西先生の「おい……見てるか谷沢……お前を超える逸材がここにいるのだ……!!」の心の声

・・・・当初は「何でこのエピソードがないんじゃー」と憤慨したものですが、宮城とは直接関連しないエピソードであることに加えて、原作未読の新規ファンに「魚住とは誰?」、「仙道とは?」、「谷沢とは?」とその度に登場人物の説明を加えなくてはいけないので、大胆にカットしたのだとわかります。「宮城とは直接は関係ない」、「何らかの説明が必要になる人物」という視点に立って見ると、優先順位からカットせざるを得なかったのだと思います。

 同じように、対戦相手の山王工業のキャラクターもほとんど深掘りされていません。前半をほとんどカットしたので、我慢の男・一ノ倉の過去エピソードもカットされてますし、河田弟こと美紀男は後半途中から急に出てきて違和感を抱かせる存在になっています。一ノ倉は三井寿と、河田弟は花道とのマッチアップが主で、宮城との絡みがないですからね。この辺の線の引き方はかなり明確にしています。

■さり気なく生かされていた、沢北栄治は泣き虫という設定

 唯一の例外が、沢北栄治でした。
彼に関しては父親のテツ沢北が登場せず、そのエピソードも省略されていた反面、今大会ポスターに登場している描写や、大会前に「僕に必要な経験をください」と神社でお祈りしていたことなど原作にはないエピソードが追加されています。

なお、このお祈りが、敗戦後の堂本監督の「負けたことがあるというのが、いつか大きな財産になる」という言葉を引き立たせるエッセンスにもなっています。沢北自身、原作の敗戦後は泣いてませんが、映画では廊下で泣き崩れています。

あの沢北が泣くなんて・・・・というシーンですが、実はすぐ泣くキャラクターなんですよね。これは原作の設定ですが、試合前日のミーティング(湘北のビデオ分析)で、河田からプロレス技をかけられたときに深津から「すぐ泣くピョン」と言われています。しかも二回も言われてました。だから、もともと泣き虫なのでしょう。沢北は泣き虫という設定をさりげなく生かしていたのがニクいです。

ちなみに流川が沢北を「高校ナンバーワン選手」と認識したのは、前夜に豊玉の南に薬をもらうエピソードからです。これも「南とは?」を説明する必要が出てくるので、大会ポスターのシーンに差し替えたのだと思います。これにより宮城と流川が会話し、2人が沢北を意識するという原作とは違う伏線が生まれています。

■試合描写で優先されたのはテンポ感とリアリティ

 試合シーンの描写も徹底してますね。
これは宮城目線うんぬんではなく、テンポ感とリアリティを追求しているので、そのテイストにそぐわないギャグパートもほぼカットしているということです。

笑わせるポイントとしてカットしなかったのは、花道の顔面シュートとゴリへのカンチョウぐらいでしょうか。ただこれも「ここ、笑いどころですよ」という感じではなく、あくまでサラッと描写しています。これも優先順位があっての判断だと、井上雄彦先生は映画パンフレットのインタビューで語っています。

「原作の細かいギャグなんかはどうしても入らなかったです。漫画だと細かいギャグは、小さいコマや字でこそっと入れられるじゃないですか。でも映画はスクリーンのサイズがずっと一定で、その隅っこに小さくギャグを入れても気付かれませんし、大画面でやるのも違うので。そこの違いは大きかったですね」

 試合のテンポ感とリアリティに関していえば、ビッグプレーにも割と淡々としていくのが妙に印象的でした。

例えば開始直後の「いっ!」という宮城と花道のサインプレーによる、奇襲のアリウープ。本編では観客の度肝を抜いたかのようなシーンでしたが、会場では立ち上がりで少しざわつくぐらいで、別にヒートアップもせずに、サラッと進んでいきます。試合が途切れずに進んでいく感じがどこか生々しいんですよ。

例えば試合そっちのけで、ケータイゲームをしている少年の描写もありますよね。別に、試合開始はそこまでみんなが100パーセント集中してみているわけでもない。井上先生はこういう空気感を映像でも描きたかったのではないかと思ったぐらいです。

リアリティについていえば、魚住純のかつらむきのシーンが除外されたのもわかりますし、例えば花道の晴子への「大好きです。今度は嘘じゃないっす」の告白シーンも、試合中のベンチに部外者(晴子と桜木軍団)が降りてくることも現実的ではないわけです。リアリティを考えて、そういう要素も省かれています。

ちなみに観客をしっかり観ていると、試合を観戦している海南メンバーはいましたし、魚住も途中からちゃんと応援席にはいました。ぜひチェックしてみてください。

■この熱い想いを受け止めてほしい

 というわけで、「宮城目線を中心に進んでいく」を前提に観たことで、いくつかの発見があったわけですが、一番感じたのは、井上雄彦先生はスラムダンクファンを信頼して全力投球をしたのだな、ということです。

アニメ版主題歌の「君が好きだと叫びたい」の歌詞に「この熱い想いを受け止めてほしい」という歌詞がありますが、映画からはそんなメッセージを感じたんです。

そもそも、スラムダンクという漫画は完結している作品です。それも、人気絶頂期に作者自身が自らの手で連載を終わらせた漫画ということで知られています。人気のあるうちは連載が続くのが常識だった週刊少年ジャンプでは異例とも言える最終回を迎えた作品でした。

 つまり、ここから何かを付け足すような描写をするのは、ぶっちゃけ、それ自体が野暮なのです。だから、これまでも続編は作られてきませんでしたし、コラボも含めて数多くあったであろう様々なオファーも作者の井上雄彦先生は断ってきたのだと思います。

 しかし井上先生にとって、数少ない心残りもあったのでしょう。
それが宮城リョータという存在です。今回の映画を宮城リョータを主人にして描こうとした理由について、井上雄彦先生は映画パンフレットのインタビューでこう語っています。

「原作をただなぞって同じものを作ることに、僕はあまりそそられなくて。もう一回『SLAM DUNK』をやるからには新しい視点でやりたかったし、リョータは連載中に、もっと描きたいキャラクターでもありました。3年生はゴリが中心にいて、三井にもドラマがあるし、桜木と流川は1年生のライバル同士。2年生のリョータは間に挟まれていた。そこで今回はリョータを描くことにしました」

 原作をなぞることにはそそられなかったこと。連載中からもっと掘り下げたかった存在が宮城リョータであったこと。そして、それが出来なかったこと。だから、スラムダンク連載後に読み切り漫画「ピアス」を描いたのかもしれませんし、どこか後ろ髪を引かれた存在でもあったのだと察します。宮城を納得するまで描いてみたい・・・・この映画には、そんな思いも詰まっていたのでしょう。

■宮城家を通じた井上雄彦先生からの問いかけ

 実は井上雄彦先生は、宮城リョータが一番感情移入しやすいキャラクターだとインタビューなどではわりと答えています。高校時代はバスケ部で、体格はリョータとほぼ同じで、ポジションはポイントガードです。今回の映画で、宮城家の家族構成が明らかになってますが、井上先生自身も3人兄弟の次男。下にいるのは妹ではなく弟だそうですが、兄がいるので、宮城家の設定と重なるところは多かったものだと察します。

 つまり、井上先生には宮城リョータを深掘りしたい理由があったわけです。

だからこそ、スラムダンクファンも問われていたわけです。

この作品にどう向き合いますか、と。

「今の井上先生が描きたかったスラムダンクはこれだったのか!」と理解を示すのか。それとも「いや、自分が期待していたスラムダンクはこれじゃないですよ」という拒絶反応のまま終わるのか。

長年スラムダンクを読んできたファンからすると、「自分は宮城リョータにはそこまで興味はないよ。作者の思い入れとか知らんがな」という人もたくさんいるはずです。宮城家を通じて何を伝えたかったのかには興味がなく、もっと言えば、「別に宮城の物語を、わざわざこの映画でやる必要はなくない?」となるわけです。

ここに生まれたギャップを受け入れるかどうかが、この映画におけるスタートラインなのかもしれません。ある意味、山王戦の前に、湘北のメンバーが試合前の恐怖心を乗り越えるかどうかとも少し似てますね。ここを乗り越えないと、作品の見方や受け入れ方も変わるでしょうし、この作品に対する認識も最後まで平行線を辿ってしまうような気がします。

 原作をなぞりながら、外せない名シーンを散りばめておけば、ここまで賛否は分かれなかったはずです。でも、あえて宮城リョータを軸に進んでいく作品にして、井上先生はスラムダンクファンに問いかけたわけです。

この「新しいスラムダンク」を受け入れますか、と。

例えば作中での宮城リョータの母のカオルは、長男であるソータの死をなかなか受け入れませんでした。妹のアンナは、幼少期には、「ソータ兄ちゃんは死んでいない。どこかで暮らしている」と信じていましたが、どこかのタイミングで死を受け入れていました。

そんな2人の気持ちを汲み、宮城リョータはどこか悩みながらもバスケットに励んでいました。大きな枠組みで言えば、井上先生自身が、この「新しいスラムダンク」が受け入れられないかもしれないというファンの心理描写を、宮城家を通じて描いていたようにも感じます。

 でも、あえてそこを問いかけてきたことに、「ダンコたる決意」を感じました。そして、それができたのも、井上先生の中でもスラムダンクファンに対する揺るぎない信頼があるからこその投げかけ、なのだと僕は思っています。

■井上先生は、なぜスラムダンクファンに対する信頼が厚いのか

 少し話は逸れますが、井上先生がスラムファンに対する信頼に関する有名なエピソードがあります。2004年に廃校に最終回のストーリーを描いた「あれから10日後」イベントで、井上先生は教室内に警備員を置かず、注意書きの張り紙すら貼らなかった、ということです。

 黒板でチョークによって描かれた漫画です。近づいて触れようとすれば触れられるし、もし一人でも悪意のある人がいたら、いとも簡単にこのチョークで描かれた漫画を消せる状況です。というか黒板消しまでちゃんと置いてありましたからね・笑。

 でも、作者の井上先生はイベントに足を運んでくれるファンの思いを信頼して、警備なども一切置かないことに決めたと後日自身のHPで明かしていました。そこで警備を置いたら、「僕の負け」だと思ったそうです。

 その結果、3日間を終えて、枠線の一本すら消されなかったのです。もちろん、黒板に描かれたあのストーリーがいかに神聖なものであるか、ここまで足を運んだファンならみんなわかっています。でも、そこまでファンを信頼できる井上先生も凄いわけです・・・このイベントに足を運んだスラムダンクファンの1人として誇りに思えたことです。

 そういう経験も踏まえて、観たことのない、新しいスラムダンクでもファンなら受け止めてくれる。そこには揺るぎない、赤んぼのような信頼があったのだと思います。そんな熱い思いが詰まった、26年越しの作品だったように感じました。

山王戦のクライマックスで桜木花道は安西監督に問いかけ、こう答えます。

「オヤジの栄光時代はいつだよ……全日本のときか?オレは・・・・・オレは今なんだよ!!」

・・・この桜木花道の問いかけと「オレは今なんだよ!!」のセリフは、この映画を表現したかった、「今」の井上先生の叫びのようにも聞こえました。


おかわりをするとさらに発見があるので、オススメですよ。

ではではこの辺で。

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12月15日には映画に関する特別本が出るようです。




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