宮崎産マンゴー

宮崎産マンゴーがトップブランドになった理由【連載9(最終)】

7.「宮崎は一つ」生産者、JA、県が組織的にブランド構築

沖縄も宮崎もマンゴー栽培はJA、県が最初から指導して導入されたものではなく生産農家がマンゴー栽培を導入している。


ただ、沖縄と宮崎の大きな違いは、宮崎県の場合は早い段階で生産者だけなくJA、県も加わり統合、組織的にブランド構築を推進したことある。マンゴー産地として宮崎は後発だがブランド構築への取組、ブランド戦略は沖縄より進んでいる。ブランド戦略の先進地といえる。


成都市生産農家8戸でハウスマンゴー部会が結成されマンゴー栽培がスタートしたのが1985年。当時マンゴー栽培ノウハウはゼロだった。
1988年8月宮崎産マンゴー250㎏を初出荷。東京市場へ直接売り込むものの市場からの反応は散々で、まったく売れなかった。東京市場では、まったく売れない宮崎産マンゴーだったが生産農家を支援する形でJA、県が加わり連携し体制を構築する。


生産農家、県、JAなどが連携し一体となったマンゴー産地化へ動き出した。
1989年、宮崎県が全県的な果樹振興を定めた計画「フルーツランド構想」を策定。「フルーツランド構想」「新フルーツランド構想」では、亜熱帯性果樹であるマンゴーは宮崎県の観光イメージを創出させる象徴的果実として位置づけられ、マンゴー生産への補助事業が導入された。


1993年「宮崎は一つ」を合言葉に県内のマンゴー栽培農家約280人で構成する「宮崎県果樹振興協議会亜熱帯果樹部会」が発足。生産農家、JA、県が一体となって栽培技術確立や販売拡大を目指し、「みやざき完熟マンゴー」のブランド構築に取組んだ。


生産農家、JA、県が一体化することで、国、県の補助メニューを上手く活用し、加温施設には欠かせないハウス施設、冷暖房設備、流通生産施設など整備され加温栽培が広く普及し品質の高い宮崎産マンゴーが大量に生産できるようになった。

宮崎産マンゴー施策で注目したいのは1994年(平成6年)3月に策定した「みやざきブランド確立戦略構想」だ。宮崎県産品の「作った物を売る」から「売れる物を作る」、「イメージアップ戦略」から「マーケティング戦略」へ転換したことにある。


ブランドに関わる品目や産地の認証、育成指導、体制の確立を担う「みやざきブランド確立推進本部」が県に設置され、委員会をトップに生産部会、企画部会、販売部会を設置。支庁・振興局単位に「みやざきブランド推進地域本部」が設置され、委員会、幹事会があり、他にも各農業改良普及センター単位にブランド推進部会を設置する力を入れた。
全県的に統合、組織化された総合的ブランド推進体制が構築されたにより産地形成、物流・販売、PR戦略、試験研究などがより効果的に機能した。

宮崎産マンゴーが急速にブランド化できたのは「宮崎は一つ」を合言葉にマンゴー栽培農家約280人で「宮崎県果樹振興協議会・亜熱帯果樹部会」が発足し、生産農家、JA、県が一体となって栽培技術確立や販売拡大したことが大きい。


宮崎県が施策として打ち出した「フルーツランド構想」「新フルーツランド構想」「みやざきブランド確立戦略構想」の全県的ブランド戦略にマンゴーの選定されたことで、ブランド化が一気に進んだ。


1993年当時、国内産マンゴーの沖縄産シェアは91.1%だった。宮崎でマンゴーが商業用として本格的に栽培されて10年経過していたが、生産量、認知度とも沖縄産が圧倒していた。1998年の凶作まで沖縄産が8割~9割程度のシェアを維持していたが、1999年以降沖縄産のシェアは低下し宮崎産が増加してきた。2000年以降、宮崎産が急増し、2015年(平成27年)沖縄産2,035tで53.5%、宮崎産約1188tで31.2%となっている。


沖縄県では、宮崎県の施策「みやざきブランド確立戦略構想」や全県的に統合、組織化された総合的ブランド推進体制が整っていなかった。
 野菜、果物の市場拡大とブランド化を推進する機関として設置された「沖縄県農林水産物販売促進協議会」があるものの「みやざきブランド推進地域本部」の様な全県的に統合、組織化されていないため一過性の取組に終わっている。


「おきなわ熱帯果樹ブランド確立事業」「トロピカルおきなわフルーツランド支援事業」も熱帯果樹の種苗に関する生産・流通実態調査、有望熱帯果樹の海外探索、導入を行うもので、特色ある熱帯果樹産地としての安定生産に重点が置かれている。


2008年(平成20年)4月に「沖縄県青果物ブランド確立推進協議会」が設置。これまでバラバラに対応してきたことへの反省から拠点産地の形成や生産部会等の育成、青果物ブランド化推進、計画的生産出荷、販売、担い手育成・確保に取組んでいる。


「太陽のタマゴ」より14年遅れ、沖縄産マンゴーのブランド名「美らマンゴー」が商標登録されたのは組織化が遅れた為だ。沖縄では明治時代から個々の生産農家が庭先でマンゴーが栽培され生産農家が創意工夫して生産が拡大した経緯があり、組織的な取組に移行するのはなかなか難しい状態だった。
県、JAがブランド化を推進しようとブランド認証基準などを決めるにも個々の生産農家の意向を最大限くみ取る必要があり、まとめるのに時間がかかってしまった。


ブランド化が遅れた沖縄とは対極に、宮崎は「宮崎は一つ」を合言葉に生産農家、JA、県が一体となった取組が「太陽のタマゴ」のブランド化につながりトップブランドへと駆け上がった。


連載〈完〉


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