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上越立ち止まりスポット33(釜子陣屋跡)

福島県白河市東地区の学校に講師を頼まれ行ってきた。東地区は平成の大合併前は東村だった。この地には昨年秋にも訪れ、そのときに旧高田藩の飛び地だったという話を聞いて驚いたことを以前のNOTEに書いた。今回、教育委員会の方が資料を届けていただき、それをもとに情報を記したいと思う。

東北地方に入る要所として白河の関が有名である。江戸時代まで、白河は幕府にとって重要な地域であったのだ。そのため何度も領地替えが行われ、徳川に近い松平家が藩主となっていた。寛保元年(1741)の転封でそれまでの白河藩領の約半分が越後高田藩領になり、幕末まで続くことになった。懲罰的なものだと推測されている。

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当初は本拠の高田地区の領地よりも奥州の領地の方が多いという逆転現象が生じていた。高田領が67000石で奥州領が85000石だったのだ。その後、粘り強い高田藩の交渉で高田領が119000石、奥州領が32000石になった。当初は浅川地区に陣屋が置かれたが、のちに釜子地区に陣屋を移し行政を行った。それが現在、釜子陣屋跡として残っている。

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戊辰戦争の際に、高田藩は新政府に従ったが、釜子には連絡が入らず、奥州高田藩士は奥羽越列藩同盟側に付いた。白河では戊辰戦争の勝敗を決める大激戦が行われたが、奥州高田藩士はその戦いに参加し、会津城にも籠城して戦った。戦後、徒歩で高田まで苦労して戻ってきたが、藩から謹慎を命ぜられる処分を受けた(のちに赦免される)。

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高田藩の飛び地について上越市では知る人も少ないが、白河市では「白河歴史の手引き『れきしら』」に掲載され、白河歴史検定もあるそうだ。

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