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4月15日は、杉田庄一の命日

杉田庄一は、大正13年(1924)7月1日、東頸城郡安塚村小蒲生田(現上越市浦川原中区蒲生田)の農家で6男3女の次男として生まれる。山の中の家から毎日2km離れた安塚村立中保倉高等小学校に通い皆勤賞で卒業し、安塚農林学校に入学。1年の半ばで中退し、15歳で海軍に入隊する。少年兵から予科連に進み、戦闘機搭乗員となる。

昭和17年、ラバウル航空隊での初陣で、空の要塞と言われるボーイングB17を攻撃し、体当たり撃墜をする。方向舵を失うが無事帰還。その後も、最年少パイロットながら果敢に戦い、技量を磨く。

山本五十六連合艦隊司令長官の前線視察時には護衛戦闘機隊6機の一人として選ばれるが、アメリカ軍の秘密作戦で待ち伏せにあい、山本は戦死する。6機の護衛戦闘機パイロットたちは、責任をとらされるように、その後毎日のように出撃させられる。他の5人が戦死あるいは重傷で戦線離脱する中をただ一人戦い続け、18歳ながらベテランを凌ぐエースパイロットになっていった。毎日2〜3回の出撃をする中で撃墜数を増やし個人撃墜数は60機を超えた。昭和18年、多数の敵機に囲まれエンジンを被弾するが、火だるまの飛行機から脱出し全身やけどを追いながらも生還する。

昭和19年、やけどの傷跡をのこしたまま再びグアムの前線基地に復帰し、ペリリュー島などでの戦闘に参加。赴任したばかりの菅野直(当時中尉)の指揮下に入る。以後は、激烈な戦い方をする菅野には常に杉田ありという関係を築く。

昭和20年、本土に戻り紫電改で結成された343航空隊の菅野隊第二小隊長として本土防空の任にあたる。エースでありながら個人技ではなく、チームで戦う編隊空戦に徹し、部下をよく育てた。

4月15日、鹿児島県鹿屋基地にて離陸直後に被弾戦死する。20歳だった。常に率先先頭にたっていた杉田らしく、敵襲ありの速報ですぐに飛び立ったところを撃たれた。敵機があまりに近いのですぐに出撃命令が避難命令に切り替えられたが間に合わなかった。

戦死後、全軍布告の感状が出された。「克ク部下列機ヲ掌握シ 一糸乱レズ 飛行機隊大指揮官ノ戦闘指揮官ヲ容易ナラシメタルノミナラズ 自ラモ亦 挺身勇戦奮闘出撃毎二毎抜群ノ戦果ヲ収ムルヲ常トシ 個人撃墜七十機 協同撃墜四十機ニ達スル偉功ヲ奉セリ 斯クノ如キハ常住座臥戦闘機搭乗員ノ真髄ニ徹シタルモノニシテ 真ニ徹シタルノミナラズ全軍ノ作戦遂行ニ寄与スル所極メテ大ニシテ 其ノ武功抜群ナリ ヨッテ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス」

実質2年間の戦闘期間での個人撃墜70機、協同撃墜40機は比類ない記録である。

令和3年4月15日、風は冷たいがよく晴れていたので、杉田の生家のあった蒲生田に行ってきた。生家の場所はわからない。奥深い山の中は、桜が咲いてはいるがまだ残雪があちこちにあり、ようやくふきのとうが出てきたばかりだ。

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このような奥深い山の中で、どうして海軍のしかも戦闘機パイロットになろうと考えたのだろうか?



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