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安田浩一「差別と闘うのが本来の右翼だ」(『維新と興亜』令和5年5月号)

民の権利のために戦ってきたのが右翼だ


── 玄洋社などの民族派の源流には反体制的な側面がありましたが、敗戦とGHQの占領によって、民族派は体制迎合的、親米的になってしまいました。
安田 右翼であろうが、左翼であろうが、近代以降の日本の反体制運動は自由民権運動を源流として発達してきた歴史があると思います。自由民権運動は、文字通り民の権利のための戦いでした。例えば、立志社の活動家植木枝盛は民の権利のために「民権数え歌」まで作り、頭山満も立志社を訪れた際にそれを歌ったといいます。現在、「人権」という言葉は非常に左翼っぽく、生ぬるく受け止める人もいるでしょうが、右翼もまた「人権」のために戦ってきた歴史があるのです。
 ただし、戦前においても、ある時期から右翼は軍部に迎合し、権力の補完勢力として位置づけられるようになっていきました。もちろん、日本社会全体が軍部に迎合し、権力に迎合していくという流れの中にあったと思います。
 私が不思議でならないのは、戦後の右翼がいとも簡単に親米に変わってしまい、権力に靡き、権力の補完勢力として位置づけられてしまったことです。もちろん、反共という目的があったがゆえに、アメリカだけではなく、様々なアジアの反共勢力とも手を結ぶ必要があったのでしょうが、反共が目的化してしまったために、民衆から遠く離れた存在になってしまったと考えています。
 もちろん、赤尾敏さんのように日の丸とともに星条旗を掲げたことには、ある種逆接的な意味もあったのかもしれませんが、民族主義の旗を掲げながら、なぜこうもアメリカに迎合するような主張をするようになったのか不思議です。

民族派としての筋を通した大東塾


── アメリカに敵対する日本の勢力を無力化するために展開されたアメリカの様々な工作によって、民族派も変質したように思います。
安田 もちろん、そうした影響もあるとは思います。公職追放など、GHQによって様々なパージが行われました。しかし、GHQがどれだけ強い勢力であろうとも、皮肉な物言いになりますが、それに立ち向かうことが、民族派、壮士、志士、国士といった言葉で呼ばれる右翼の存在意義だったのではないでしょうか。一部には、徹底抗戦を続け、神風が吹くと信じ、時に命を投げ出してアメリカに立ち向かった人が多くいたにもかかわらず、意外にも日本社会は敗戦という事実を簡単に受け入れてしまいました。私はいまだにその疑問が抜けません。
 あるいは、皇室を守るためには、どんなに汚れた水でも飲む、アメリカであろうが皇室を守るためには誰とでも手を組むという覚悟があったかもしれません。しかし、端緒がそこであったにせよ、結果的に右翼民族派と呼ばれている人たちはアメリカの戦略に取り込まれていきました。
 戦後まもなくは日本共産党もアメリカ万歳でしたが、その後は左翼の方がよほどアメリカに抵抗しました。目的は別とし、ギリギリのところでアメリカと戦ったのは、左翼だったという気がします。
── 戦後民族派が親米化し、日米安保を肯定するようになる中で、戦前から昭和維新運動に挺身してきた人たちの中には、独自の立場を貫いた人たちもいました。安田さんは、『「右翼」の戦後史』(講談社)で、大東塾にも光を当てています。
安田 大東塾は民族派としての筋を通したと思います。彼らはアメリカの言いなりになるという選択を拒否したわけです。大東塾の影山正治さんは、六〇年安保当時、右翼の側から日米安保体制に疑義を唱え、警官隊との衝突により国会前で死亡した東大生・樺美智子さんに向けて、「心から哀悼の言葉を述べたい。彼女こそ日本のために亡くなった愛国者だ」と追悼の言葉を残しました。
 影山さんは、樺さんとは描いている将来の日本の姿が全く違ったとしても、アメリカの軍門に下ることを拒否した仲間の一人の死であると位置づけていたのだと思います。そうした影山さんの思いに私は共感します。
 さらに、大東塾は安保改定のために米大統領一行の訪日が発表されると、自民党などが用意した〝ウェルカム・ポスター〟に対抗し、「日章旗の下へ!」と記した〝日の丸ポスター〟を都内各地に貼付したといいます。私と考え方は違いますが、筋論だけで言えば、影山さんの行動こそが正しかったのではないかと思います。反体制右翼として折られてはいけない背骨、曲げられてはいけない背骨もあるわけです。そこを守り通すことは、右であれ左であれ、重要なことだと思います。

石原莞爾の思想を継承した武田邦太郎


── 戦前に多くの民族派が体制に迎合する中で、石原莞爾、木村武雄らの東亜連盟運動は東条政権にも抵抗しました。戦後も、石原莞爾の流れをくむ人たちは、独自の姿勢を維持していました。
安田 石原莞爾の思想を継承した武田邦太郎さんは、共産党などの革新政党かと勘違いするようなスローガンを掲げていました。武田さんと初めて会った時に、とても物腰の柔らかい人だと感じました。彼は民族協和の理想を掲げた石原莞爾や曺寧柱のことを非常に高く評価していました。
 平成十九(二〇〇七)年三月下旬頃、武田さんにお会いしたときのことでした。一緒に山道を登り、石原莞爾の墓に向かう途中、山桜が満開で、木立が淡い桃色にかすんでいました。すると、武田さんが不意に話しかけてきたのです。
 「靖国(神社)の桜は咲きましたか?」
 私がどう答えてよいのかわからず、「たぶん、満開だと思いますが……」と答えると、武田さんはこう続けました。
 「靖国の桜はソメイヨシノですね。私はソメイヨシノがあまり好きではないのです。なんというか、あまりに華美で、自己主張が強すぎるような気がするんです。人工的な感じもします。その点、山桜はいい。素朴で、ひっそりと、控えめに、昔からそこにいるかのように優しく咲いています。風景の中で浮き上がることなく、自然と調和している」
 その頃から、総理の公式参拝などをめぐり靖国は政治の大きな焦点になっていました。私は武田さんの言葉を聞いて、勇ましい言葉で国民を煽る右派勢力をソメイヨシノにたとえ、それをやんわりと批判したのだと感じました。ことさらに愛国心を掻き立てなくても、霞がふわっと湧きたつような山桜のように、自然な郷土愛を大切にしたいという武田さんの思いを感じました。

「石原慎太郎は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」


── 三上卓先生の影響を受けた野村秋介先生には、戦前の民族派にあったアジア主義的な思想が受け継がれていたように思います。
安田 私は個人的には、植民地主義に通じる大アジア主義に共感できるところはまったくありませんが、心ある右翼の人にアジアという概念があったことは認めています。欧米の植民地主義に対して、アジアの人々が立ち上がるために何をすべきかを考え、アジアと連帯するという意志は非常に強かったと思います。
 例えば、ベトナムなどアジアの独立闘争に身を捧げた日本人も少なからずいました。アジア主義は右翼の背骨の一つだったと思いますが、現在はそれすらあまり見えなくなりました。野村秋介さんには、「差別を許さない」、「同じアジア民族が欧米列強からなぜ差別されなければならないのか」という思いは強かったのだろうと思います。
 野村さんが、河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に服役していた頃、同房の在日韓国人が看守から虐待を受けたことに抗議し、刑務所長に直訴したというエピソードも残されています。
 昭和五十八(一九八三)年の衆院選では、石原慎太郎さんと同じ選挙区から出馬した新井将敬さんのポスターに、「北朝鮮から帰化」と記した中傷ステッカーが相次いで貼られるという事件が起こりました。その後、ステッカーを貼ったのが石原陣営の選挙スタッフだったことが判明すると、野村さんはこれに激怒し、石原さんの事務所に怒鳴り込み、「石原は、すべての在日朝鮮人に土下座して謝れ」と迫ったのです。ここに、右翼の真骨頂が示されていたと思います。「アジア人を馬鹿にするんじゃないぞ」という思いがあったのでしょうね。私は野村さんの思想を全部受け入れるわけではありませんが、軽薄な右翼とは遠く離れた野村さんの思いには、強く胸を打つものがありました。あの時、立ち上がり、ある種右翼としての怖さを石原陣営に見せたのは野村さんだけでした。嫌韓を叫ぶことが愛国者ででもあるかのような現在の風潮を、野村さんはどう評したでしょう。
── もともと、戦前に昭和維新運動に挺身した人たちは、貧困に苦しむ庶民や農村の疲弊を目の当たりにして、権力を貪る特権階級の打倒に立ち上がった人たちです。
安田 昭和維新という言葉は右翼を名乗る人々の間では現在も生きていると思いますし、戦後の右翼、民族派に強い影響を与えたと思います。民族派が三上卓さんの思想を真面目に継承していたならば、現在の右翼の形にはなってなかったと思います。ただし、真面目に継承すればするほど少数派になってしまうという悩ましさもあるでしょう。しかし、胸を張って少数派であり続けることも、重要だと思います。野村秋介さんも、自分はあくまでも少数派として不条理に立ち向かうという姿勢を貫いていたのだと思います。その姿勢を示したのが、「民族の触覚」という言葉だったのでしょう。ところが、現在は国家権力の言葉や少数派や外国人を排除するための言葉に敏感に反応する触覚ばかりが目立ってしまっている気がします。私は排外主義には断固として反対する立場です。

新右翼の源流はどこに

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